どこの誰に引っ越すの?

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玄関に差し込まれていた手紙が、ドアを開けた途端にポトンと落ちた。 "あなたを苦しめることは辞めます。今までごめんなさい、これからはどうかお元気で。さようなら" 私は唇を噛み、身勝手なその文章を何度も読み返した。こんな手紙なんか残さなくても、あの人が部屋から少しずつ故意的に消していく匂いや存在感には気付いていた。 私の部屋にはあの人の煙草の匂いと香水の匂いが染み付いている。私に自分の匂いを纏わせてだと言いたかったのだろう。仕事やプライベートで男と会った日は、特に残り香が濃厚だったことを何年経っても嗅覚は忘れてはいない。 「染み付いていた筈なのに……」 ドアを開いた先には真っ暗な自室。 匂いも、視線も、気配も、全て。あの人を感じる形跡は何一つ残されてはいなかった。 私はへたり込む。 あの人の中では断捨離と梱包が済んでいる。綺麗に片付けられた部屋には、失った日々の愛しさだけが置き去りにされていた。 「だめ。苦しいわ……」 私の行動パターンや家族に友人関係、恋愛、好き嫌いに至るまで、あの人は観察して細かく自己分析して管理しようとしていた。尾行や隠し撮り、自宅への不法侵入だって……私の注目が常に自分に向くようにしたいだけの束縛で、あの人の愛だった。胸が震えてはち切れそうだ。 ーーあの人は、なの!! 「私から、どこの誰に引っ越すの?」 あの人のが二十代までだと知っている。私はアラサー。除外対象になってしまったのだろう。でもそれが何だと言うの。 真っ暗な自室に入ると、あの人が仕掛けていた盗聴器をそっと抜き取る。今度は私があの人の部屋に仕掛けに行けばいい。 「"タナカ リョウジ" さん待ってて」 あの人がうっかり落として行った診察券を取り出すとキスをする。 地下アイドルの引退間近だった私を追い掛けて来てくれたあの人に恋をした。 あの人を迎え入れて心に住まわせたのは私。 注目されることも愛されることも幸せで、ストーカーされて監視されていることを知ったときは"悦び"で気が狂いそうになった。 ーー今度は私があの人の心に引っ越さなくちゃ。 部屋に明かりを灯すと暗い気持ちは瞬時に光に潜む。 これから忙しくなるだろう引越し準備に、胸がときめいていた。(終)
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