プロローグ

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プロローグ

#1  祖母が認知症だと知らされたのは、私が高校から帰って来て、いつものようにダイニングテーブルで塾の宿題をやっている時だった。  キッチンに立ってジャガイモの皮を向いていた母が、急に嗚咽をもらし、泣き出したことがきっかけだった。  私はびっくりして、母に声をかけた。 「どうしたの」  母はエプロンで手を拭き、両手で顔を覆って声を潜めて泣いていた。  何事かと驚き、母と向き合い両肩を支え、顔を覗き込む。 「お母さん、何があったの」  母は大きく息を吐き、自分の椅子に腰掛けたが、すぐには口は開かなかった。  何かが起こったのは間違いない。  母がこんなにも取り乱すのを私は見たことなかったので、どうしていいかわからなかった。 「落ち着いたら話して、お母さん」  母はエプロンで顔を覆い、ごめんなさいね、と言い、やっと泣き止んだ。  それから私に視線を向けたが、その目はどこか虚ろだった。 「さっきね、マチコ伯母さんから電話があってね」  私はすぐに、祖母のことだなと直感した。  祖母は80歳を当に超え、マチコ叔母さん夫婦が生活の面倒を見ていた。  亡くなったのかと思ったが、そうではなかった。 「おばあちゃん、認知症の疑いあったでしょ」 「うん、聞いてた」 「あんたには言ってなかったけど、最近、特にひどくなったらしいのよ。それで病院の診断をしてら、レビー小体型認知症らしくてね。暴れたりしたりするんで、施設に入れることになったのよ」  そう言うと、母はまた泣いた。 「姉さんのこともわからなくなったみたいで、暴れたり徘徊するからだって」  そんなにひどくなっていたのかと、私はショックを隠しきれなかった。  3ヶ月前のゴールデンウィークに会いに行った時、祖母は同じ質問や話しはしたけれど、それ以外はいたって普通だったからだ。  そして、いつものように得意のジャズナンバーも披露してくれた。  祖母は若い頃、プロのジャズシンガーだったのだ。    当時はあちこちのジャズ喫茶やクラブでも歌っていて、レコードも何枚か出していた。  私が行くと祖母は、初めて告白するように、自分は昔、歌手だったのよ、と誇らしげに言った。それはもう何度も聞いて知っていたが、私は初めて聞いたかのように驚いてみせた。祖母は歌手時代の華やかなりし頃に撮った写真のアルバムを私に見せた。  ステージで歌う若い頃の祖母は、ゴージャスで艶っぽかった。さぞやモテたのだろうと想像したし、実際にそうだったと母からも聞いていた。  私が、歌ってとせがむと、祖母はもう歌えないわと言いながらも、サマータイムだけは軽く口ずさんでくれた。そのせいで、私もいつのまにか覚えてしまったほどだ。  もう声は掠れてあまり出なかったが、それでも私が拍手をすると、スパンコールのように目をキラキラさせ、誇らしげな笑みを浮かべていた、  そんなチャーミングで優しい祖母が暴れたりするとは、想像さえできなかった。
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