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ラストステージ
#5
私は学校を休み、母と祖母の入院している病院に駆けつけた。
ICUでは絶対に音楽は聴けないことはわかっていたが、Bluetoothのスピーカーは持って出た。
ICUの控え室で、伯母さんは母を見た瞬間、泣き出した。母は伯母さんを抱きしめ、大丈夫よ、絶対大丈夫よと何度も言った。
私たち3人はマスクはもちろんヘアキャップや全身を覆うエプロンのようなものを着せられ、エアシャワーしてからICUに入った。
祖母は酸素マスクをし、ゼェゼェといかにも苦しそうな荒い息をし、固く目を閉じていた。
医者が何か説明してくれたがまったく頭に入って来なかった。私の目には、祖母はいま死んでもおかしくないように見えた。
それを裏付けるように、夕方になると伯母さんの旦那さんである伯父さんや、あまりよく知らない親戚の人たちが次々と病院に現れた。
おばあちゃんが、死んじゃう・・・。
私は親戚の人が増えれば増えるほど不安が募り、鞄を開いては、持って来たスピーカーをじっと見つめた。
せめて最後に、音楽を聴かせてあげたい。
おばあちゃんの好きだったジャズを。
しかし、ICUでそれは叶わないのは当然だ。
私はICUを抜け出し、病院の冷たいソファにひとり座ってイヤホンを耳に差し込む。
『祖母のすべて』と題したプレイリストを開き、クリックする。
無機質だった病院の廊下が、一気に華やぐ。
ピアノの旋律、ベースの柔らかく深い響き、軽やかなドラム・・・。
音楽はすごい。世界を変える力を持っている。
一瞬にして無機質な病院が、別のの世界になった。
廊下の蛍光灯が、突然、パッと消えた。
「停電?」
明かりはすぐにでついた。
しかし、私はどこかのホールの客席に座っていて、目の前にはステージがある。バンドはポジションについていた。
どこからか、司会者の声がした。
「それではお待たせしました。シェリー河原のラストステージの開幕です!」
シェリー河原とは、おばあちゃんの昔のステージネームだ。
バンドが演奏を始める。
舞台の下手から、人影がゆっくりと舞台中央へと移動して来るのが見えた。会場からは拍手が起きる。スポットライトがパッとステージを照らす。
スパンコールを散りばめた黒いロングドレスに身を纏った祖母がすっくと立ち、艶めかしい視線を会場に送る。
そして、歌が、始まる。
「君をほしがるなんて僕は愚か者だ
僕は君をほしがる愚か者さ
本当に実を結ぶことがない愛を求めるなんて
みんながほしがっている恋人を望むなんて・・」
おばあちゃんが1番好きというビリー・ホリデーの『恋は愚かというけれど』だった。
私がプレイリストの一曲目に入れた曲だ。
1曲目が終わると、大きな拍手が起こる。祖母はすぐに2曲目を続けた。
チェット・ベイカーの『マイファニーバレンタイン』。
その時、まさか、と思った。マイファニーバレンタインは、プレイリストの2曲目に入れていたからだ。
歌が終わると会場から割れんばかりの拍手が起こる。横を見ると、母が、その隣にはマチコ伯母夫婦さんが座り、嬉しそうに拍手をしているのが見えた。
もちろん、私も精一杯拍手をした。
2曲目が終わり、祖母はステージ上に置かれたグラスを口に持っていき、ひと口飲んだ。
「仕事中の飲酒は最高ね」
お茶目な笑顔に、会場のあちこちからは笑い声が起きた。
祖母が、私の方に視線を向けたのがわかった。
「今日は、私の大好きな孫が見に来ているの」
突然、私にスポットライトが当たる。びっくりした拍子に立ち上がってぎこちなく祖母に手を振った。祖母も手を振り返してくれた。
「ナオちゃん、今日はありがとうね。私の好きな曲、たくさん集めてくれたのね。向こうへ行っても、歌うわね」
その言葉に、私は冷水を浴びたように、我に返った。
「では次の曲は、私の大好きな、サマータイムです。幸せな時間を本当にありがとう。私の人生は、幸せでした」
その時、スポットライトがふいに消えた。
何も見えない。
何も聞こえない。
祖母は・・・?
誰かの足音がした。
音のする方に顔を向けると、病院の青白い蛍光灯の下に母が立っていた。ハンカチで目を抑えながら、私に手招きしていた。
私は、ことのすべてを理解した。
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