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「これは奥方様。ようこそお越しくださいました。」
「疾風の世話、ご苦労です、新吉。この馬はとても人見知りするゆえ、ここに来たばかりのあなたには疾風の世話は大変でしょうに」
「いえいえ、この馬は、一度心を許した者には、とことん従順になるので大丈夫です。幸い、私にもすっかり慣れておりますので。」
「えっ?」お濃は驚いて目を丸くした。
「でも、そなたは昨日ここに配属されたばかりなのに・・・?」
「実は奥方様、私は奥方様がお輿入れになる直前に病気となり、それまではずっとここの厩で馬番をしていたのです。この馬は以前からここで若様の馬として、ずっと私がお世話をしておりました。私が病気療養でここから離れている間にこの馬はいつの間にか「小鹿毛(こかげ)」から「疾風」という名に変わり、しかも奥方様が乗りこなしていると聞いて、私も不思議に思っていたところです。若様から奥方様へ譲渡されたのですか?」
新吉の言葉を聞いたとき、お濃はあることに思い至った。
「新吉・・・もしかして、その若様とは・・・信長様のことですか?」
「はい、そうですよ。この城のものや犬千代様をはじめとする近習の方々は、みな、信長様のことを“若!”とお呼びしておりました。けれど急に信長様より命があり、奥方様が美濃からお輿入れになる直前から、若ではなく“殿”と呼ぶように命じられたのです。奥方様を迎えらえるのを機に、そのように変えられたのかと思っておりました。」
何も知らない新吉が真実を語り始めた瞬間、近くにいたもう一人の馬番、服部小平太が「新吉!これ、余計な事を言うでない!」と話を遮り、「奥方様、大変失礼いたしました。これにて失礼いたします!」と新吉を慌てて引っ張り、その場を離れた。
お濃のそばから新吉を引き離した後、小平太が「疾風のことは話してはならぬと勝三郎様より殿の命として聞いていなかったのか?」と新吉につめよった。
「すまん、小平太。私は復帰したばかりで、何も聞いていなかったのだ。奥方様に話してはまずいことだったのか?」
小平太は深いため息をつき、険しい顔で答えた。
「そうか・・・てっきりそなたは殿の命を聞いていたと思っていた・・・おれもうかつであったな・・・これはお叱りを受ける前に勝三郎様にお伝えせねば!」
「でも、どうして奥方様に伝えてはだめだったのか?あんなに疾風をかわいがってくださり、しかも乗りこなせるお方なのに・・・」新吉は困惑を隠しきれず、ぽつりと呟いた。
「それは俺もよくわからんが、殿のお考えがあるのだろう。でもこれはまずいぞ。とにかくそなたは、奥方様に聞かれても、以前の馬のことは話してはならぬぞ、わかったな!」
「わかった。以後は気をつける。子細がわからず・・・すまぬな・・・。」
新吉はなおも腑に落ちない様子で頷いた。
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