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 今日も、彼女が来た。  今日は、ここ最近では過ごしやすい気温だ。  行き交う人々も、暑さが和らいだ束の間の時間を楽しむように、心なしか、柔らかな表情をしているように感じる。  彼女の格好も、前回より、幾分か涼しそうな格好だ。タイトな黒のジーンズに、赤のカーディガン。ラフな感じも良く似合っている。  今日も人並みは途切れることはない。前後左右、様々な場所から溢れ出てくる。一人で歌っていると、飲み込まれそうになるほどだ。 「また、来たよ」  俺は歌うのを止め、彼女の顔を見た。前回より、顔色が悪い気がする。体調が悪いのだろうか。聞き出そうと思ったが、それは止めた。何か事情があれば、知られたくないだろう。 「また、俺なんかの歌を聴きに来たんだ」 「わたしは、晴斗の歌、好きだな」  彼女はそう言うと、俺の隣に腰掛けた。俺は、少しだけ反対側にずれた。彼女に自分の歌を好き、と言われて、心のなかの誰も触れたことがない場所に触れられた気がした。  俺はなんだかこそばゆい気持ちになり、彼女から視線を逸らして言った。 「しがない、ストリートミュージシャンだけどな……」 「そんなことない。一生懸命、何かを伝えることって大切だよ。わたしにはできない」 「確かにそうだけど、伝わらなければ意味がないんだ。行き交う人たちは、誰一人、俺の存在には気付いていない。気付かないフリをしてるんだ」 「そうかな。少なくとも、わらしには伝わってるし、必要だよ。晴斗は」  彼女は俺の目をまっ直ぐ見据えて言った。 「たった一回、聴いただけだろ? どうして、そこまで言えるんだ」 「それは、秘密」 「なんだよ、それ。最近の中学生はよくわからないな」 「あー。その言葉きらい。なんでもかんでも、最近の若者で片付けないでよね!」 「わかったよ。俺がわるかった」 「素直でよろしい。許してあげる。ねえ、また、歌ってよ。元気が出る曲。お願い」 「別にいいけど。じゃあ、ずいぶん前に作った曲だけど……自分でも気に入ってる、アップテンポの曲があるんだ。それを歌う」 「ありがとう」  彼女はそう言うと、目を閉じた。  ふと、彼の閉じた目を見た。艶やかな長い睫毛が目に入る。  俺は直視できず、視線を逸らした。 ポケットからピックを取り出し、俺も目を閉じる。   様々な音で、駅前は溢れている。忙しない足音。学生達の騒ぎ声。子供の泣き声。自転車のベルの音。そのどれもが、駅前では必要なのだ。この喧騒が、俺を掻き立ててくれる。  俺が目を開けると、彼女はまだ目を閉じたままだった。小柄で痩身な翼からは、儚さと切なさを感じる。  俺は演奏を始めた。ギターをリズムよくかき鳴らしていく。彼女の体が、徐々にリズムに乗っていく。  俺は前奏を終え、声を乗せた。どこまでも届け。知らない誰かにまで届け。君に届け。  そこで、ふと気づいた。ストリートを始めてから、こんな気持ちで歌えたことがあっただろうか。 デビューしたての頃は必死だった。ただ、がむしゃらに歌った。何も考えずに。考える暇もなかった。  翼みたいな人間は初めてだった。名もないストリートミュージシャンのために、暑いなか立ち止まり、目を閉じて聴いてくれるなんて。  俺は嬉しくなり、自然と口が綻んだ。誰にも、もう届かないと思っていた自分の歌声が届いた。たった、一人だったが、それでも構わなかった。 「一人の心も動かせない奴は、大勢の心は動かせない」  と、以前世話になったプロデューサーに言われたことがある。  俺は必死に歌った。翼に向けて。翼の心に向けて。届くだろうか。届いただろうか。不安な気持ちもあったが、歌い終えた頃には、自然に笑みが零れていた。  歌い終えると、街の喧騒のなかに、小さな拍手が響き渡った。 「素敵――。元気になる。ありがとう……」 「こちらこそ、聴いてくれて、ほんとありがと」 「晴斗は、どうして歌を歌うの?」 「そうだな。ずっと……熱中できるものがなかったんだ。ある日、友達の家で、ギターと出会って、それから、ギターを弾くだけじゃ満足できなくなって、弾き語りを始めたんだ。音楽は、自分を素直に出せた。音楽だけだった。向き合えたのは。でも、いつの間にか、それからも、逃げてたよ。君が聴いてくれてよかった。昔の気持ちを思い出せた」 「そう……うらやましいなあ。わたし、好きなことなんてできないから。いつも、病院にいる……」 「えっ……こんなところにいて大丈夫……じゃないよな」 「うん、ほんとは外出禁止なんだけどね。でも、病院にいても退屈だから」 「まあ、そうだけど……もう、病院に戻った方がいいんじゃないのか?」 「もう少しなら大丈夫だよ」  彼女はそう言うと目を伏せた。寂しそうで儚げな瞳だった。  突然、遠くから、 「おい、お前! ここで、歌っていいと思ってんのか!」  と怒号が飛んできた。  俺と彼女は、目を見開き、顔を見合あわせた。  その男は、泥酔しているのだろか。足元は覚束なく焦点は合っていない。  遠くからゾンビのように、ふらふらゆらゆらと、俺達に歩み寄って来る。行き交う人間は、関わりたくないのだろう。その男から、距離を取っていく。俺達への道だけが、すっぽりと空いている。  男と俺達との距離が、手を伸ばせば届きそうなほどになった。  彼女は怯えているのか、拳を握りしめている。俺は彼女の前に立つ。 「お前みたいな下手くそは、家で歌ってろ! 迷惑なんだよ!」  俺は何も言わず、男の目を見つめた。何の感情も込めずに。  男は謝らないことに激昂したのか、俺のむなぐらを掴み、自分の元に引き寄せる。俺は反撃しなかった。確かに、興味のない人間からすれば、ストリートライブは迷惑極まりない行為だろう。だが、罪を犯しているのではない。ここまで言われる筋合いはない。  俺は男の手を払い、毅然と立ち尽くして、 「ご迷惑をおかけしたのなら申し訳ありません。ですが、ここは、ストリートライブ禁止区域ではないので。きちんと許可も取っています」  と言い放った。  次は、瞳に揺るぎない意志を込めて。  彼女が後ろから、ズボンのポケットを何度か引っ張る。振り返ると、彼女は顔を左右に振っている。  男はさらに歩み寄って来る。俺は彼女を守らなければ、と思った。心の底から。  俺はありったけの力でギターをかき鳴らした。コードも関係なしに。弦が切れそうなほどの強さで。  行き交う人々は何事かと思ったのか、次第にこちらを気にし始めた。  男はバツが悪くなったのか、 「この、下手くそが!」  とだけ言い、逃げ去るようにその場を立ち去った。 「大丈夫だったか?」  と俺は言った。 「うん。晴斗が守ってくれたから。晴斗は意外と大胆なんだね。ギターをあんなふうに使うなんて」 「本来の使い方じゃない使い方をしたから、ギターには悪かったな」 「そうだね。でも、ありがとう。心強かった。晴斗になら、話してもいいかも……わたしの病気のこと。聞いてくれる?」  俺はすぐに返事ができなかった。即答できる問題ではない。彼女は覚悟を決めた。俺に聞いてほしいと決めた。俺も決断しなければいけない。彼女と向かい合わなければ。  彼女の目を見ると、儚さはまだ残っているが、奥の方に強い意志を感じた。俺はそれを見て決めた。彼女の話を聞こうと。 「聞かせてほしい。つらくなったら、いつでも止めていいから」 「ありがとう。じゃあ、話すね」  彼女は曇りない笑顔で言った。
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