純子

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純子

「純ちゃん、総司! 今から総司の家で試験勉強するんでしょう? アタシたちも混ぜて! お願い!」  皐月と桃子、桃子のボーイフレンド吉田が揃って私に手を合わせた。この高校では赤点を取ると部活動に参加できなくなる。明日の学期末試験を前に、それぞれ切羽詰まっているようだ。総司は面倒見が良く、勉強もできるほうだから、試験勉強となれば頼りにされることが多い。 「私はいいわよ。総司は?」  昇降口で靴を履き替えていた私は、既に靴を履いて私を待つ総司に目線を投げる。 「僕も大丈夫。ただ人数が多いから、図書館へ行こうか」  総司が爽やかな笑顔を残して、家へ電話するのだろう、公衆電話へと向かった。私はちょっぴり残念な気持ちで、その背中に訴える。二人きりが良かったんだけどなぁ。もちろん、心の中で。 「邪魔してご・め・ん・ネ。勉強だけ終わったら、アタシらはささっとハケるからさ」  桃子がこそっと私に耳打ちして、その隣の皐月もうんうんと小刻みに首を縦に振る。このところ、二人からはこうやってからかわれてばかりだ。 「も~、そんなんじゃないったら!」 「今のところ、ね」 「告白しちゃえばいいじゃない」 「シーっ! 聞こえる聞こえる!」  昇降口に差し込む夕日が、私たちの笑い声を、私の焦がれるあの人を等しく照らした。  図書館までの道のり、私と総司は二人並んで最後尾を歩いていた。 「帰り、送っていくよ。純子が読みたいって言ってた本、今日持って来てるんだ」 「本当? ありがとう! 楽しみだわ。読みたかったのよ」 「楽しみなのって、本だけ?」 「え……?」  総司の顔を見上げると、「いや、何でも……」と言ったきり、ぷいとそっぽを向いてしまった。顔にかかる夕陽が熱い。セーラー服の赤いスカーフが、夏のぬるい風を受けてふわりと弾んだ。  図書館はどこの学校も試験前とあってそこそこ混みあっていたけれど、なんとか六人掛けの席を確保できた。今日ばかりはお調子者の桃子もひょうきんな吉田も皆真面目に勉強に励んでいる。勉強に集中できないのは私のほうだった。  高校生になって一緒に学級委員をしてからというもの、どちらかと言えば奔放な私と、穏やかで落ち着いた雰囲気の総司は真逆に見えて何故か気が合った。皐月や桃子にからかわれるようになったからなのか、それとも最初からなのかはわからないけれど、どうも総司のことを意識してしまって仕方がない。  結局何を勉強したのか浮ついたまま勉強会を終え、二人きりの帰り道も緊張したままで、当たり障りのない話をしているうちに家に着いた。 「送ってくれてありがとう」 「これ、返すのはいつでもいいから。じゃあ、また明日」  彼は学生鞄から出した本を私に差し出し、はにかむような笑顔で手を振った。その姿を目で追いながら、私も手を振り返す。彼が角を曲がったあと、手元の本に目を落とした。ちょっと丸みを帯びた本に、左利きの彼が片手でページを抑える姿が見える気がした。背表紙の脇、右肩上がりに書かれた『山田総司』の名前を指でなぞって、思いつく。ブックカバーを作って、彼にプレゼントしようと。母に良い布がないか相談してみよう。 「ただいま」  古い借家の玄関のドアを開けてリビングに顔を出す。いつもならご飯の用意がしてあるはずなのに、今日は何もなかった。においもしない。 「お母さん? いないの?」  家の中を探しに行こうかと廊下に出たところで、母が二階から降りて来た。いつものエプロン姿ではなく、お出かけ用の黒のワンピース姿で。 「純子。今から引っ越すわよ。すぐに必要なものだけまとめなさい」 「え? 今から? え?」 「お父さんが──」  お母さんの表情が曇ると同時に、私の目の前も曇っていった。慌てて荷物をまとめようにも、頭が追いつかない。なんで。さっきまで普通に試験勉強をしていたのに。せめて皐月や桃子、それに総司に挨拶を、と思っても、それも叶わないことだった。父がしでかしたことを思えば、二度とここへは戻って来られないだろう。私は修学旅行で持って行った旅行鞄に洋服や勉強道具やアルバムなどをつめて、母に促されるままタクシーに乗り込み、最終の電車で遠縁の親戚宅へと向かった。  夜の電車はすいていて、私たち以外の乗客は二、三人ほどしかいない。夜の闇をひたすら走る電車の窓に、心細そうな私の顔が浮かんでいる。隣に座る母は疲れた様子で目を閉じていた。  皐月も桃子も、私が突然いなくなって悲しむだろうか。憐れむだろうか。そしてすぐに、忘れてしまうだろうか。それに、総司も──。  鞄の中から、返すあてのなくなった、借りたばかりの本を取り出す。パラパラとページをめくると、ちょうど中程のところで止まった。二つ折りの紙が挟んである。開いた中にあったのは、一行だけの、右肩上がりの字。    それを見た瞬間、堰を切ったように涙がこぼれた。隣の母に気づかれないようにと思ったけれど、どうしようもない。  友も、恋も、これまでの生活も、何もかもなくなってしまった。  寂しさ、怒り、不安、やりきれなさ、いろんな感情が心の中をめぐって、言葉にできないぶんだけ涙や鼻水として流れていく。手で拭っていたら、白いハンカチが目の前に差し出された。母の手で花の刺繍が施されたものだった。 「命がある。手も足もある。大切なものはなくならないわ。お母さんを信じて」  そんなの、信じられるわけない。なくなっちゃったじゃない! お父さんのせいで!  泣いても泣いても、現状が変わらないことはわかっていた。母に八つ当たりしたって仕方がないことも。母の肩にもたれた頭が、電車の揺れに合わせて小刻みに震える。目を閉じてぐるぐると浮かんでくるのは、数時間前に手を振って別れた彼の顔。私も、と伝えられなかった後悔。今手の中にある、右肩上がりの彼の字──。 『純子のことが、好きです』
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