勝代

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勝代

「久恵のところに疎開しましょう」  女学校の勤労奉仕から帰宅した私に、母が声を潜めて言った。近いうちにこのあたりも空襲があるのではないか。そんな憶測が広まっていたのは、米国の飛行機が落としていった大量の広告が理由だった。もちろん拾いはしない。拾えば非国民だとどやされ、憲兵に連れて行かれる恐れがあるからだ。広告には『爆弾が落ちるから逃げろ』という趣旨の文言と、体を焼かれながら逃げまどう人の絵が描かれていた。 「久恵おばさんの家? いつまで?」 「期間は決めちゃあいないけど、いっとき置いてもらえるように話はついてるの。六日に出るから、引っ越す準備だけしておきなさいね」 「……はい」  母は慌ただしく台所へと姿を消した。 (ここを離れるんですって……)  私は部屋の隅の仏壇で薄く微笑む父の遺影に語りかける。  父の戦死の知らせを聞いたのは今から半年ほど前のことだった。直接話を聞き、遺品を受け取ったのは母だったから、私は何も知らない。唯一知っているのは、遺影の前に置いてある白い箱の中には、石ころが一つ入っているということだけだ。父が亡くなった場所にあったであろう石。「戦死した」の言葉とこの石ころ一つではどうしても泣くことができなかった。ちょっとした連絡の行き違いがあって、ひょっこり帰って来るのではないか。そう考えてしまって。  八月一日の夕方、日が暮れる前に、私はできる限りの引っ越し準備を始めた。母は母で隣近所や洋裁仕事の職場へ挨拶をし、私は私で女学校の学友たちと先生方に一時の別れを告げ、二日続いた深夜の空襲警報で寝不足のまま、あっという間に六日になった。 「これで全部ね?」 「うん」 「じゃあ、行きましょうか」  私たちは大きな荷物を担いで、駅までの道のりを歩いた。早朝にも関わらず日差しは強くて、少し歩いただけで汗が吹き出る。首に巻いた手ぬぐいはすぐにじんわりと湿った。久恵おばさんの家は電車で二時間ほどの距離にある田舎町にあり、米農家を営んでいる。置いてもらう間は農作業を手伝うことになるだろう。何度か家族で遊びに行ったこともあるから気心も知れているし、それに何より、配給が少なくなっている現在、食べるものに困らないことはありがたいことだった。  一歩前を歩く母は、前に後ろに大荷物だった。その大半は、母の得意の洋裁道具だ。母の針仕事は格段に速く美しく、私のシャツやもんぺも私の体形に合ったデザインで作られており、級友たちから羨ましがられたものだ。もんぺの裾を見ながら歩いていたら、母が突然立ち止まった。 「勝手口の窓、開けっぱなしだったかもしれないわ」 「そうなの? 私、見て来るわ」 「悪いわね」  木陰で荷物をおろした母の足元に、私の担いでいた荷物もおろす。汗ばんだシャツを乾かすように風で背中を膨らませながら、家へと駆けた。汗で額に貼り付く前髪を拭いながら。電車の時間に遅れるわけにはいかない。  家へと繋がる曲がり角に入った途端、あたり一面が眩しく光った。次の瞬間には体ごと吹き飛ばされ、私は気を失った。  ほんの一瞬、はたまた小一時間……どれくらい気を失っていたのか。  焼け焦げるにおいで気がつきあたりを見回すと、朝だったはずの空は暗い雲に覆われていた。どの家も倒壊し、ところどころに濃い灰色の煙がくすぶっているのが見える。町全体が壊滅的な被害を受けていることがわかった。何か大きな爆弾が落とされたことに違いない。  お母さん──!  あの木陰で待っている母は無事だろうか。手をつき体を起こして右膝を立てたら、ふくらはぎがずきずきと痛んだ。吹き飛ばされたとき、壁で体を打ち付けたのだろう。それでも私は痛む足腰を引きずりながら、母と別れた木陰へと歩く。両の手から熱でただれた皮膚をぶらさげて歩いて行く人。見るからに亡くなっている子どもを抱きかかえたまま息絶えた人。すれ違う人、目に入るものすべて、とても現実のものとは思えない。  次第に痛みも、誰かのうめき声も、焦げたにおいも何も感じなくなった。少し前までとは百八十度変わってしまった町──。  ようやくたどり着いた母と別れたはずの場所に、母の姿はない。木があったであろう跡があるだけだった。あんなに重かった荷物の一つさえ見当たらない。急に自分の体が重く感じて、母が座っていたと思われる場所に倒れるように腰をおろした。 「お母さん……」  出たかどうかもわからないほどかすれた声は、私の耳に届くこともないまま目の前の地獄に吸い込まれるように消えた。暗い空から雨が降る。  あぁ、地獄に降る雨は黒いんだなぁ。  そう思って目を閉じた。誰が何をしたとして、私たちはこんな目に遭わなければならなかったのか──。せめて私が家を出る前戸締りを確認していたら、どんな形だとしても、今頃母と一緒だった。あるいはあと一日早く引越していたなら。  次に目を開けたら、「朝よ」と起こしてくれる母の顔があったらいいのに。  母が作ってくれたシャツを体ごとかき抱いて、そのまま地面に横たわった。父も、母も、家も、何もかもなくなってしまった。本当に、何もかも。  べたついた黒い雨が、私を覆い尽くしていく。
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