真実子

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真実子

 夫の浮気を知ったのは、妊娠五ヶ月、ちょうど安定期に入ったときのことだった。ふたを開けてみると浮気相手は夫の元カノ。元カノと別れたタイミングで付き合った私が妊娠したから、結婚することにしただけ。なんなら私が浮気相手だった可能性のほうが濃厚なくらいだった。私が見ていた彼は、なんだったんだろう。女として、妻として、人間として、そして何よりお腹の中にいる子どもに対しても、酷い裏切りだと思った。 「こうして責任取って結婚したじゃないか!」 「義務で結婚したの⁉ ばかにしないでよ! 私に言ってくれたことも、この子が産まれてくるのが楽しみだって喜んでたことも、全部演技だったの⁉」 「そうじゃないけど……」 「そうじゃないけど、なんなのよ⁉」 「……」 「……別れよう」  待ってくれ、俺が悪かった。そんな言葉を期待していたのに、向かい合った夫はあからさまにホッとした顔をして頷いた。自分で別れようと言ったくせに、またしても傷付いている自分すら憎い。  結婚と同時に譲り受けた一軒家は彼の両親が全額負担して買ってくれたものだったから、必然的に私が出ていくことになった。離婚することが決まるやいなや、彼の両親、とくに義母からは、「だいたい、私はずっとマキちゃんがいいと思ってたのよ。どこをどう騙したのかあなたみたいな計算ずくな女に捕まって」云々と数日にわたって嫌味を浴びせられたものの、もう言い返す気力もなかった。  結婚、妊娠を機に仕事を退職していたから、離婚届さえ提出してしまえば彼の地元であるこの地に居座る理由もなく、私は一週間もしないうちに僅かな荷物を持って家を出た。産まれてくる子のために二人で選んだベビーベッドやベビー服などは、すべて置いてきた。あの人と選んだものなんか使いたくない。お金のことなどは後日、弁護士を通して話しますとのことだった。  玄関ポストに鍵を入れたあと、衝動的に玄関ポーチの脇に置かれた義母の趣味であるステンレス製の傘立てを蹴り飛ばしたら、ガシャンと派手な音を立てて転がった。そのまま階段を下りたあと、少し迷ってまた階段をのぼって、傘立てを元の場所に戻した。若干傷の入ったところを外壁側に向けて。やることなすこと惨めに思えて、それ以上振り返らずにその場をあとにした。  電車、バスを乗り継いでたどり着いた実家は、夫婦二人暮らしにピッタリな団地住まいだった。私が高校を卒業して出ていくタイミングでそれまで住んでいた借家から引っ越したから、実家と言っても私にはあまり馴染みがない。部屋の前について呼び鈴を鳴らす前にドアが開いて、ママの顔が覗いた。 「足音がするたび、真実子かなぁと思って。大変だったわね。とにかく入って入って」  狭い廊下の先にはリビングとキッチン。リビングの隅の椅子で本を読んでいたパパの「おかえり」の言葉に、「ただいま」と返す。リビングとの続き部屋には古い足踏み式のミシンが置かれていた。電子ミシンが主流な現在でも、ママが最も大切にしているものだ。その周りの棚には型紙や裁縫道具が収納されている。借家に住んでいた頃より増えたような……。 「あぁ、それね。パート先の若い子からハンドメイドのネット販売のやり方を教えてもらって、作ったものを売ってるのよ。私今結構お金持ち。楽しいわよ~」 「へぇ、すごいね……」 「パパだって最近株でちょっと儲かったし、一人二人増えたってどうってことないんだから。とにかく今は元気な赤ちゃんを産むことを考えなさいな」  私が気にしないようにというママなりの配慮だろう。パパも本に目を落としてはいるけれど、さっきから読むページがすすんでいないことから、こちらを気遣っているのがわかる。  帰る場所があって、私は本当に恵まれている。恵まれているのに、いたたまれなかった。結婚したらパパとママみたいに仲の良い夫婦になれるものだと信じていた。私には趣味とか、特技とか、可愛げとか、そんな輝かしいものが何もないからダメだったのかな。 「こんなことになって、ごめんね……お世話になります……」  顔を上げられない。それ以上何も言えないでいる私に、ママがあったかいルイボスティーを淹れてくれた。ルイボスティーは苦手だったけれど、ママのルイボスティーはほんのりフルーツ系の甘みがして、口の中に残る薬っぽい感じもなくて、するすると喉を通る。半分くらい飲んだところで、事の顛末をポツポツと話した。パパもママも、怒るでも憐れむでもなく、口を挟まず黙って聞いてくれた。 「隔世遺伝かしらね。真実子のおばあちゃんも男を見る目はなかったから」 「そうなの?」  おばあちゃんは私が産まれてすぐに亡くなっていて、これまでおばあちゃんの話を聞く機会もあまりなかった。 「そうよ。お父さん……真実子のおじいちゃんね。ろくに家に帰ってこないと思ったら、会社のお金を横領して捕まった上に、よその女に貢いでたって言うんだから」 「それは……」  初めて知ったけれど、たしかにヒドイ。 「じゃあママだって大変だったんじゃないの?」 「そうねぇ。急に引っ越しせざるを得なくて、名字も変わって……大変だったかもしれないわね」 「……なんでそんな、笑って言えるの……?」  ママが立ち上がって、ミシンを指さす。 「真実子もやってみる?」 「え、無理だよ。壊しちゃうかもしれないし、私裁縫なんか授業でしかやったことないし」 「いいからいいから」  促されるまま座って、ママに指示されるまま布と糸を選ぶと、それをママが慣れた手つきでミシンにセットしてくれた。目の前の布に手を置き、恐る恐る足踏みペダルを踏む。  カタ、カタカタカタ、カタ  ママがいつもやっていたようにリズミカルにはいかないけれど、目の前のミシンが私の足のリズムで布と布を縫い合わせていく。 「あ」  強く踏み過ぎたのか布を引っ張る力が強すぎたのか、縫い合わせていた糸が切れた。 「ごめんママ……やっぱりダメだね、私……」  椅子を立とうとする私の肩を抑えて、ママが素早い手つきで糸を入れなおす。 「ごめんごめん、布と糸が合わなかったのかしらね。突然切れることだってあるわよ。こうやって別の糸をついだっていいし、縫い直したっていい。どうだってできるんだから、大丈夫よ」  目に涙が溜まる。本当に大丈夫なんだろうか。ちゃんとやっていけるんだろうか……。とうとう零れた涙が、鼻の脇をすべって唇を濡らす。ぬるくてしょっぱい、なんとも情けない味がした。 「命がある。手も足もある。大切なものはなくならないわ。私を信じて」  ママの言葉が不安な心の内を突っ切って、私の中にじんわりと沁み込んでいく。  時間、自信、結婚生活、思いやり……失ったもの、見失っていたものは多かった。でも、失うものばかりじゃなかった。私のお腹の中には赤ちゃんがいる。この結婚も考えようによっては、失敗という経験を得た、とも言えるかもしれない。元夫の酷い仕打ちは忘れようもないけれど、私もまた、結婚に焦る気持ちがあって、見ないフリ、考えないフリをしているところはあった──。 「そうだわ! 赤ちゃんが産まれるんじゃあこの団地は手狭だろうし、いっそのこと引っ越しちゃう? ねぇ、総司さん」  ママから突然声を掛けられ、リビングで本を読んでいたパパが、眼鏡をずりさげたあと、一拍置いて吹き出した。 「純子の行動力には恐れ入るね」 「どこがいいかしら。海辺の一軒家なんか素敵じゃない?」  一人で妄想を膨らませていくママの目を盗んで、私とパパは目だけで『また始まったね』と笑った。  私はまだあまり膨らんでいないお腹に手をあてる。  これからを考えよう。へたくそかもしれないけれど、糸をついだり、縫い直したりしながら、紡いでいけるように。 「ママ。ミシン教えてくれる? ベビー服、作ってみたい」  それを聞いたママの顔が、今日一番にぱぁっと輝いた。 「もちろん! 私もね、始まりはお母さん、真実子のおばあちゃんから教えてもらったのよ。おばあちゃんのお母さんは広島の生まれでね──」 <了>
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