隣で寝ていた人からは雨と教室の匂いがした

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 目が覚める前、私とは別の身体が隣にあるような気がした。これはきっと夢だ。水族館で買った長いイルカの抱きぐるみに抱きつくように私は私ではない身体に抱きついた。  頬に髭があたる感触があって私は飛び起きた。脳内のどこを探っても記憶にはない男が隣に寝ていた。 『あなた誰? 』私は声を発したと同時に自分の体をまさぐった。服はちゃんと着ている。昨日着ていたグリーンのTシャツとデニムのままだった。 「ああ、お目覚めか? 」  男はそう言うと彼氏みたいにあたしの頭をなでようとした。 「ちょいまち、どういうこと? 」 「全然、覚えてない? 眠れる人間ってさ、本当にバスの終点に着いても寝てるんだな。あんたがさ、終点なのに、俺の肩によりかかって寝てるから、起こしてやったんだよ。それから、『お兄さん、ありがとう』なんてバス停すぐのコンビニに寄ってあんたは、ほらっテーブルの上にあるビールやら酒とつまみを俺に買ってくれて、一緒に飲もうなんて言いながら、俺を部屋に連れ込んだ。なのに、部屋についた途端、ベッドに倒れて寝てしまうから、俺も隣で寝たわけ。くっついてはいたけれど、なんにもしてません。しかも、あんたさ、寝相悪いし、鼾はうるさいし、俺も疲れていたから悪いが何一つせずにすぐに寝た」  男の言うことは嘘じゃなさそうだった。確かに棚卸しが思った以上に時間がかかって最終のバスにぎりぎりに間に合う時間だった。私は一番うしろの座席に座って──、そうだ、この男が途中から乗ってきた。  ゆっくりと脳内で昨夜のことを再生してゆくと悪いのは完全に私だった。   「ごめんなさい。どうやら、私が完全に悪かったみたい。ところであなた、今日は仕事は? 」 「俺は休み。あんたは? 」 「私も休み」 「暇ならどっか行くか? 」 「どっかってどこ? いいや、やっぱり寝とく。疲れがたまってるみたいだから」 「そっかぁ、じゃあ、俺は帰るわ。帰るって言ってもすぐそこのマンション。あの目の前の赤レンガの」  男はそう言うとすんなりと玄関から出ていった。名前も何も教えてないけど、部屋はバレてる。はぁっ、やっぱり疲れすぎてる、私はとりあえずシャワーを浴びて部屋着のTシャツと短パンに着替えてまたベッドにもぐりこんだ。もぐりこむと、さっきまで気づかなかった男の残り香がした。煙草でも酒の匂いとも違う。  どれぐらい寝ていたのかわからない。玄関のブザーがなって目が覚めた。ドアの除き穴から見てみると今朝の男がびしょ濡れで立っていた。 「なに? 大丈夫? 」 「いや、お前、多分、ずっと寝てるだろうと思ったから、好きか嫌いかはわからんけど、パン買ってきたんだ。そしたら、パン屋の帰りに夕立に遭遇してこのあり様」 「ちょっと待って、バスタオル持ってくる」   あたしはバスタオルを洗面所に取りにいきながら、『何、この展開? もしかして彼氏気取り? 』バスタオルを手に取りながら、まだ残る眠気と現実に混乱していた。  バスタオルでふいたところで、彼はびしょ濡れだ。 「ちょっと傘貸してくれ。俺、シャワー浴びてくる。お前もくるか? どうせ、目の前だ。そのままで大丈夫」  友達でも彼でもない人の部屋に行くなんておかしい、そう言おうとしたとき、バスタオルを持ってない左手をギュッと固く握られた。まるで紐で結んだみたいに。 「行こう」  外に出ると雨は小ぶりになっていて、彼の部屋は本当に目の前のマンションだった。 「俺、とりあえず、シャワー浴びるから。そこらへんでくつろいでいて」  カーテンをつけてない彼の部屋からは、街が海みたいに見えた。  彼が浴びてるシャワーの音が夕立の雨音みたいに聞こえて、私はベッドサイドに座り込んでカーテンレールにかけられたポトスやコウモリランを見ていた。  しかし、ここで私は自分の姿に気づいた。すっぴん、ヨレヨレのTシャツに短パン。あまりにも素である自分に。しかも昨夜なんて一緒に寝てる。  彼もそれは一緒で腰にタオルを巻いたまま、『こっち見るなよ』部屋の中のクローゼットの中にある衣類をとりにきた。  別に誰とも付き合ったことがなかったわけじゃないし、今さら、ドキドキすることなんてない。それでも、濡れた髪をクシュクシュとタオルで無造作にふく姿は、そのまま動画で撮りたいぐらいの完璧な色気だった。 「ねぇ、直入に聞いていい? 私と付き合いたい? 」 「ブッ、ほんまにさ、恥ずかしさとか照れとかそういうのないわけ、沙織さんよ」 彼は髪をふきながら、テーブルの上にパンが入った袋を置いて、冷蔵庫からアイスコーヒーを出そうとしていた。 「……あなた、なんで私の名前を知ってるの? もしかして、なにか勝手に見た? 」 「覚えてない? 俺の顔。ほらっ、よく見て。敦、上垣敦」 「かみがきあつし? 」 「そう、一ヶ月だけ沙織さんの隣の席だった転校生」   上垣敦……、思い出した。そうだ、私は彼のことが好きで、転校したあともしばらく一人で泣いていたんだ。 「えっ? あの四年生のときに転校してきて、一ヶ月で転校していった敦くん? 」 「ビンゴ!! 俺さ、時々、沙織さんとすれ違ってたんだわ。そのたびに、どこかで見たことあるって思っとって、昨日、バスで寄りかかられたとき、沙織さんだって思い出した」  敦くんは、確か秋だったか、運動会が終わったあと、突然、転校生として私の目の前にやってきた。運動場側の窓側の席で、他の人とは違う圧倒的な優しさだった。終わりの会でいつも『沙織ちゃんが消しゴムをひろってくれました』とか、なんの取り柄もない私をとにかく褒めまくってくれた。転校することがわかったとき、私はトイレで母にバレないように一人が泣いてたんだ。 「びっくりした。本当に。まさかまた会えるなんて思ってもみなかった」 「俺もね、まさか沙織さんの隣で寝るなんて昨夜は正直、あの窓辺の席に並んだ二人がちらついて寝るどころじゃなかった。でもまあ俺の初恋だったし、あのあと、結構泣いたし、何度か手紙を書こうともしたけど、だからといって、その後どうにもならんしな、なんて思っててな」  お互い30手前というのに、一瞬で、10歳の頃の教室を思い出した。 「とりあえず、パン食べようか? 」  彼はアイスコーヒーが入ったグラスをテーブルの上に置いて、ビニール袋からローストビーフがサンドされたをバケットを取り出した。   こんなことってあるのだろうか? 一気に雨が降り出したみたいに、乾いていた私の中が潤いはじめたのがわかった。  抱きつくことさえも知らなかった恋だった。行かないでと止めることさえできない恋だった。それが突然、今、目の前に降ってきた。 「得体のしれないあなたとどうするべきか迷うところだったけど、敦くんだったんなら、迷うことはないね」 「まさかね、20年近く経って繋げるなんて神様も憎いぜ」  とりあえず、バケットサンドをかじりながら、心はあの頃の教室で、体は今の彼の隣にあった。 「沙織さんもあのとき、俺のこと好きだったよな? 」  まだ食べ終えてないバケットを置いて、キスしようとしてくる彼からは雨の匂いとあの教室の秋の匂いがした。 ──あのときだけじゃない、これからもだよ──  なんて10歳の私が言いたそうに唇を噛んだ。  外は暮れていくというのに、明日からまた月曜日だというのに、その『これから』は今まさにはじまろうとしていた。夕立があがったあとの空の色みたいに。  窓からはまさにその空がまだ濡れたままで暮れようとしていた。
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