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押入れが今も苦手だ。
怖がる弟の手を握って、その中に隠れていた頃を思い出す。
*
ぴたりと閉めたふすまの向こうで両親の言い争う声がしていた。
当時の俺たちにはいつもの光景。もうじき父親が怒声を残して家を出ていき、張り合うように叫んでいた母親も静かになるだろう。台所からプシュと缶を開ける音が聞こえてきたら、彼女が酒を飲みはじめた合図だ。
それから百をかぞえて、俺はそっとふすまを開く。
腹がすいていた。ここに逃げ込んで一時間? 二時間? 久しぶりの外の空気は、押入れよりも乾いていて酸素が多い。
せまい貝殻の中から出てきたみたいに深呼吸をすると、俺は固まっているハルの手を引いて、行こう、と目で促した。
弟はようやく顔を上げ、ぎくしゃくと押入れの床にひざをつく。
和室とひと続きになった台所では、予想通りに母親が缶チューハイを飲んでいた。今日はどこを父親に殴られたんだろう。一瞬、心配に似た感情が心をよぎるけれど、酔った母親は俺を殴ってくるので近づかないようにしている。
ずっと押入れにいたせいで足がしびれた。ふらりとハルがよろける。あわてて支えた俺のところへ、台所からマグカップが飛んできた。
わけのわからない言葉で怒鳴り散らす母親が恐ろしくて、俺は台所のすみに転がっていた食パンの袋をつかむと、ハルの手を引いて和室に逃げた。また押入れの奥へと逃げ込み、そこでパンを食べる。白いパンの表面にはところどころ緑と黒のシミがあった。
「アキ、色のついてるとこは食べないほうがいいよ」
ハルが小声で言い、わかってる、と俺はうなずいた。カビた食パンは白い部分もかさかさに乾いていて味気ない。
「牛乳飲みたいな……」
「もうすぐお母さん寝るよ。そしたら取りにいこう」
牛乳も変な味がするときがある。パンと同じで、時間がたつとだめになるのだ。
俺がそう言うと、今の牛乳パックはおとといくらいにお母さんが買ってきたやつだからまだ飲めるはずだとハルは答えた。弟は物知りだなと感心した。
見ると、ハルもかさかさのまずいパンを少しずつ食べている。
彼の姿を見ていたら少し元気が出てきて、俺も再びパンをかじった。
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