ヤドカリの家

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 家にある本を何度も読み返し、ページを結んでいた糸が切れてバラバラになる頃、俺たちは図書館の存在を知った。  町はずれにある図書館は広くて、いっぱいある本のどれも自由に読んで良いのが夢みたいだった。子どもが外を出歩いても怒られない時間になると、ハルとふたりでよく図書館へ行った。  俺とハルが特に夢中になったのは図鑑だった。大きなページに載っている、見たこともない乗り物や生き物をながめているだけで、本物を知らなくても知っているような気分になった。  俺は『恐竜』の図鑑が好きで、ハルは『海の生きもの』の図鑑がお気に入りだ。 「いつもそれ見てるな」とささやくと、「アキもね」と返ってきた。ちらりと覗いたら、ハルが開いた図鑑のページには巻き貝を背負ったヤドカリがたくさん載っている。 「ヤドカリがしょってる貝は、ほんとはヤドカリのものじゃないんだ」 「知ってるよ。死んだ貝の殻を借りるんだろ。だから宿借(やどかり)って」  ハルの言ったことを自分も知っていたので、俺は得意になった。 「大きくなって貝がきゅうくつになったら別の貝を見つけて引越すんだ」 「ヤドカリはどうして自分の殻を持ってないんだろう?」  それはさすがに知らなかったので、さあ、と首をひねる。 「わからないけど、きっと理由があるんだろ」  ハルは「そうかな」とつぶやいて、世界中のヤドカリが載っている図鑑のページを見下ろした。 「カメやカタツムリは、ちゃんと自分の家を持ってるのに」  俺は、どことなく不満そうにヤドカリを見るハルを不思議な気持ちでながめた。  家を出ていきたいと思うことはよくあった。  父親が母親を殴るとき。自分が父親と母親から殴られるとき。家の中になにも食べ物がないとき。こんな家、出ていきたいと思った。  俺たちが読む本には、俺やハルと同じくらいの年の子どもが出てくる。彼らみたいに、ある日、知らないだれかがやってきて、君たちは本当はこの家の子じゃないんだと言って、俺らを連れ出してくれないだろうか。  俺が空想の家出の話をハルにすると、弟はしばらく考えたあとで、「家出と引越しってなにが違うのかな」とつぶやいた。 「家出は、家を出ていくんだろ。引越しは……家を交換するんじゃないか? ヤドカリみたいに」 「それなら、ぼく、引越しはできる。でも、家出はしたことないや」 「引越しできるのか?」 「うん、アキが大きくなったら」  そう言って、ハルはちょっと笑った。弟はときどき不思議な笑い方をする。口のはしを少し上げるだけの小さい笑い。こういう表情をするときのハルは、俺よりもずっと年上に見える。 「じゃあ、引越しでいいから早く大きくなりたいな」  俺が言うと、ハルはぱちぱちと目をまたたいて、そう、とうつむいた。
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