58人が本棚に入れています
本棚に追加
「お兄さぁん、こっちの広い部屋とかダメですかぁ?」
雁野が受付のカラオケ店員に上目遣いすると、彼は上機嫌でパーティルームへ案内してくれた。
「採点どうする?」
「どっちでもいいよ、おれは歌わないから」
「えー、勝ったらイイことあるかもなのに?」
思わせぶりな彼女に気づかないフリをして、おれは適当なヒットソングをリクエストした。
「雁野、意外と歌上手いじゃん!」
「ママがスナックやっててさ、よく歌わされんだよね」
人前で歌うのにためらいがないのはそういうことか。一曲歌い終えた雁野に拍手を送ると、彼女は少し照れながら「……てな感じかな」と付け加えた。
「実はさ、佐竹の誘いで文化祭でライブするんだ。あんたも出てみない? せっかくいい声なんだし」
「いやー、おれはやめといた方がいいっしょ! 最近の曲も知らないしさ。てか佐竹ってあの金髪? 歌えんの?」
「ちょい音痴だけどまあ、そこは練習あるのみって感じ!」
「めちゃくちゃ不安なんですけど」
その時だった。雁野が「あ」と声を上げ、プロジェクターが映し出す映像を見つめた。
「日高一晴じゃん! 顔が良い〜!」
日高一晴。
雁野の口から放たれたその名前に、身体の熱が急速に引いていく。
「四十くらいだっけ? ぶっちゃけ全然イケる」
頼む、それ以上は言わないでくれ。
釘付けになる雁野とは反対に、おれは映像を直視することができなかった。六年振りの父さんの歌声。その視線の先にはもう、おれと母さんはいない。
「そういえばさ」
雁野、お願いだ。
「あんたの声誰かに似てると思ったら、日高一晴だ! ねえなんか歌ってよ! 今やってるドラマの曲とかさ」
はしゃぐ雁野がおれの膝に端末を置き、父さんの曲を指差した。
「ごめんだけどそのドラマ観てなくってさ、こっちでい?」
履歴にあった適当なアーティストの曲を入れ、どうにか一節歌い切ると、雁野は興奮しながらおれの背中を叩いた。
「選曲あんまだけど超上手いじゃん! まさかホントに“日高一晴の息子”だったり?」
「いやそれ嘘だから」
「えー、なにイライラしてんの? せっかく褒めてんのに! そうだ、この曲ならさすがに知ってんでしょ!」
雁野が演奏停止ボタンを押し、端末を操作する。流れ出すイントロには聴き覚えがあった。
「……なよ」
「え? なに? ほら始まるよ!」
口元にマイクを押しつけられ、おれは。
「勝手なことするなよ尻軽女!」
おれは、気づくと叫んでいた。マイクがハウリングし、耳障りな音を立てる。安っぽい演奏に荒い息が混ざった。
「世良? 大丈……」
「触んな! どうせお前みたいな女が父さんを誘惑したんだ!」
差し出された手を払い、おれは部屋を飛び出した。上手に息が吸えず、視界がぼやけた。雁野の顔は見れなかった。
最初のコメントを投稿しよう!