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今月中にもオフィスを引き払わなければならないところまで追い込まれた木丸は、すでに半分諦めていた。
カラオケ全盛時代に、散々付き合わされたが自分が歌うと気分が悪くなる。
そんなトラウマをAIで解消できたのだ。
責めるような油川の視線を正面から受け止め、睨み返した。
「物が売れるなんて、簡単なことじゃないでしょう。
私はね、黄金スピンクスを愛しています。
人数は少なくても、幸福感を味わって帰っていく人の心からの笑顔が見られれば良いと思いませんか。
自分でも歌って満足しました。
自己満足で悪いですか」
胸を張って言い切る木丸を見て、思案顔だった飯高も頷いた。
「まあ、いいんじゃないか。
大成功じゃなかったけど、今回のビジネスはここまでかもな。
負債が膨らむ前に潔く ───」
隣室から入ってきた男を認めて、途中で言葉を切った。
晴れやかな顔の目尻に、一筋の涙が流れ落ちた。
「素晴らしい ───」
憑き物がとれたように晴れやかな顔で窓へと歩を進める。
呆気にとられた油川は、後ずさりして部屋の隅に下がった。
「歌は、人を幸せにするのですね。
ドラッグや、宗教など比較にならないほど」
振り返るシルエットに、夕日が光の筋を作り出す。
「いや、僕はどちらも知りませんけどね。
例え話です。
部屋に引きこもって、鬱になりかけていた人間が、この通り変わったのですから」
目を伏せて、木丸が一歩進み出た。
「ありがとう。
最後のお客さんが、こんなに満足してくださったのだから、黄金スピンクスは充分に役目を果たしました」
徳本は目を見開いた。
「最後の客 ───」
「今月末で、会社をたたんでオフィスを引き払うつもりです」
こちらも晴れやかな顔になった飯高が、しんみりと言った。
薄暗くなりつつあった部屋に、沈黙が重くのしかかる。
だれもが肩の荷を下ろして、ひと時の夢を見た。
それだけで充分なのかも知れない。
黄昏の陽は、刻一刻と色を失くしていく。
物事には必ず終わりがある。
夢は見ることに価値があるのであって、実現するのは一握りの天才だけなのだ。
諦念と思い出に生きるのが人生である。
「ちょい待ち」
徳本は、一変して怒気を孕んだ視線を飯高に向けた。
彼自身も、なぜこんなに腹が立つのか分からないが、許してはいけないともう一人の自分が燃えたぎる精神のエネルギーを滾らせる。
「冗談じゃない。
これはただのカラオケマイクじゃない。
誰もが幸せになる道具だ」
人差し指で木丸を射貫くと、飯高は背もたれに身を持たせて目を見張った。
「と、言いますと ───」
「僕がモデルケースですよ。
売り出す方法は簡単です。
世の中に僕を増やせばいいんです」
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