面白い生活が始められそうだ

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面白い生活が始められそうだ

 目の前で実に手際よく、そして元気よく荷物が搬入されていく。  その様子を見つめながら俺は――スタッフさんたちに聞こえないように、小さくため息をついた。  この新天地で始まる新しい暮らしを前に、俺はどうしてこんな暗い気持ちでいなければならないのだろうか。  いや、理由は分かっている。  この部屋は元々、友人とのルームシェアを目的に契約していたのだ。  準備は滞りなく進み、引っ越しが三日前に迫った日。その友人から、寮付きの好条件の仕事が決まってしまったと連絡が来た。だからルームシェアの話は無しにしてくれ、といきなり告げられたのだ。  友人の就職はめでたい。信頼する先輩の口利きだったこともあって、あいつにとって断るべきではない話だったとは思う。  だけど、だ。  その結果として、俺は一人で引っ越すこととなった。無駄に広い、この部屋に。  幸い大家さんは、一人での入居でも構わないと言ってくれたので引っ越しそのものが流れることは回避できた。  しかし困ったのは家賃だ。  当たり前だが、住む人数が変わろうと家賃は変えられない。  それに、単純に部屋が余るのも困る。俺は元々、そんなに荷物も多いタイプではないのだ。使いもしない部屋の家賃を払うというのは、金銭的にも精神的にもダメージが大きい。  妥当な打開案は、新しいルームメイトを探すことだ。しかし当然ながら、いきなり決まるものではない。これから友人たちに声はかけてみるつもりだが、正直望みは薄い。あとは広く募集しかないのかもしれない。その場合は、大家さんも協力してくれるとは言ってくれている。  でも、いきなり知らない人との共同生活は……正直現状よりも不安を感じる。それを避けたくて、友人とのルームシェアを考えたわけだし。  そんなわけで今、目の前であっという間に荷物が運び込まれていくのを前に、俺はもう憂鬱の真っ只中にいた。 「ちょっといいですか?」  頭の中でルームシェア候補の算段を立てていた俺の意識を、スタッフの声が引き戻した。  今日のスタッフは3人いるが、その中で恐らく一番下っ端である若手のスタッフだ。多分、歳は近い。 「段ボールは奥の洋室に。家具類も全部指定いただいた場所に置きましたので、確認お願いできますか?」  分かりましたと返して、俺は各部屋を見て回った。  リビング、寝室、洋室ともに問題ないことを確認する。それにしても、予想よりも早かったな。自分の荷物が少ないのもあるのだろうが。  部屋を見て回る中で、一つだけ空っぽの部屋の前で足を止める。  本来、ルームシェア相手の自室になるはずだった部屋だ。なので当然ここは、 「こちらには、何も運び込まなくて平気なんですか?」  いつの間にか後ろにいた先ほどの若手スタッフが、恐る恐るといった様子で声をかけてきた。 「今でしたら、運び直せますけど」 「あぁ。ここは空き部屋になっちゃったんで。このままで大丈夫です」 「なっちゃった?」 「ルームシェアをドタキャンされたんですよ」 「えぇー! もったいない」    スタッフは声を張り上げた。  ずいぶんと愛想の良いスタッフさんだなぁと思ったが、 「この立地。この間取りでしょ。窓から海も見えて、近くに高い建物もなし。バイパスや線路も遠いから騒音も気にならなそうで。こんなメッチャいい部屋をドタキャンって……俺に言わせたら、罰当たりですよ」  思ったよりも高めの熱量で返されて、思わず気圧されてしまう。  そんな俺の様子に気付いたのか、 「あ、すみません。実は今、俺も引っ越し物件探してて。それでこの部屋とかメッチャいいなーって。なんか、すんません」  スタッフさんは恥ずかしそうに笑う。 「実は俺、いろんな物件を直接見たくてこのバイトしてるもんで」 「引っ越し作業ついでに内見してるってこと?」 「これなら、実際に家具入れた感じも見れるじゃないですか。まぁ、見るだけですけどね。住む人が決まったから、引っ越ししてるわけですし」  ずいぶんと面白い考え方をする人である。  ……ん? 今、引っ越し物件を探している? 「今、引っ越し先探してるんですか?」 「そうっす」 「ルームシェアは有り?」 「したことはないですけど、面白そうですよね」 「この部屋、ルームメイト募集するつもりなんですけど」 「おー、いいっすね……おお?」  スタッフさんの顔に驚愕の色が浮かぶ。  俺の言わんとしていることに気付いたようだ。  考え方が面白いし、今日のわずかな時間だが元気よく真面目に働いていることを見ているし。  何より、この部屋を気に入っているようだし。 「……面接とかあります?」  スタッフさんは真顔で問う。  だから俺も真顔で問う。 「なし。でもドタキャンしたら、訴訟起こす」 「それは心配ないっすね。俺、そんな罰当たりしないんで」  そう言って笑うと、スタッフは踵を返し、他のスタッフに向かって元気よく声を張る。 「こっちは俺の部屋になったんで、このままで大丈夫でーす!」  かくして俺の新居への引っ越しは無事完了となった。  これから、面白い生活が始められそうだ。  終
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