8 私達は、小さい秋を見付けた

1/1
24人が本棚に入れています
本棚に追加
/8ページ

8 私達は、小さい秋を見付けた

   ☆ 「遅くなってごめん」 「大丈夫? 長かったね。お腹痛くなった?」    20分程して宏輔が戻ってきた。  秋の日が沈みかけ、空を朱く海を橙色に染め始めている。 「いや、違うよ。そこから綾乃を見てた」 「え?」  首を傾げると、宏輔が顔を赤らめて小さく照れ笑いを返してきた。  夕陽のせいかもしれない。久し振りに正面から宏輔を見た気がした。  気まずさが、照れくささに変わる。 「これ、描いてたんだ」  宏輔が、後ろ手に隠していたものをテーブルの上に出す。  スケッチブックだ。  開かれたページには、色鉛筆で描かれた一枚のスケッチ。 「……これって……」  夕陽を背にして、丘の上でピアノを弾いている女性の姿だった。  セミロングの髪を海風に靡かせ、目を瞑って気持ちよさそうに鍵盤に指を置いている。  ドレスを着ているが、この構図はどう見ても 「今の綾乃を描いた。  これは20年ぶりくらい、かな」  宏輔を見た。  20年前に比べて、だいぶくたびれている。  照れた表情は、どことなく情けない。  けれど、素直に嬉しかった。  宏輔が自分を見て、私を見て描いてくれた。  あの頃のように。  少し悔しいけれど、感動してしまう。 「もう。何も言わないで20分も待たせて……」 「ご、ごめん」  ありがとうと言わずに、そう返した。  宏輔も笑っている。涙を流して声を震わせているのだから、もう何もかもがバレている。 「……白髪まで描くなんて、酷い」 「いやあ、やっぱりデザインは忠実でないと」 「目尻の皺まで描いてる!」 「……いやあ、これでもボカしたんだけどなぁ」  陽に照らされて、真っ赤になって泣き笑い。  こんなどうでもいい事を二人で言い合うことも、ずっと無かった。業務連絡以外のことも、私達はちゃんと話せたんだね。  宏輔が鼻を啜りながら、私の両手を取った。 「咲に見つかったんだ。  20年前、君にプロポーズした時に描いた絵」 「そうなんだ」 「忘れてた。綾乃がピアノを弾いてるところが、僕が大好きだってこと」 「そっか。そうだったね」 「言われたんだ。これからは、二人で仲良くしろって」 「うん。私も言われたよ」 「それで、綾乃のこと、また描いてって」 「うん。描いてくれるの?」  宏輔が私の手を握った。  節張って、昔よりも皺の増えた手で。  私も握り返す。  主婦らしい短い爪の、やはり皺の増えた手で。  明日から、少し自分に時間をかけようと思う。  置いていった咲のピアノを、弾いてみようかとも思う。 「描かせてほしい。  20年前には見付けられなかった、綾乃の知らないところが沢山あるんだって、この20分で分かったから」 「仕方ないなあ。  もうふたりだもんね。  これからはじっくり見せてあげるよ」  季節は、夏が終わって秋が来る。  家族もきっとそう。  私達夫婦は、秋に差し掛かっているのかもしれない。  秋枯れなんて言葉もあるけれど、秋は小さく燃えることもある。  夏が終わり、私達は小さい秋を見付けた。  宏輔が、スケッチブックの新しいページを捲った。  鉛筆を私の前に立て、片目で私を凝視する。 「どう? 何か見付けた?」 「……ほうれい線が」  そういうことは、見付けても言わないで。 【END】
/8ページ

最初のコメントを投稿しよう!