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8 私達は、小さい秋を見付けた
☆
「遅くなってごめん」
「大丈夫? 長かったね。お腹痛くなった?」
20分程して宏輔が戻ってきた。
秋の日が沈みかけ、空を朱く海を橙色に染め始めている。
「いや、違うよ。そこから綾乃を見てた」
「え?」
首を傾げると、宏輔が顔を赤らめて小さく照れ笑いを返してきた。
夕陽のせいかもしれない。久し振りに正面から宏輔を見た気がした。
気まずさが、照れくささに変わる。
「これ、描いてたんだ」
宏輔が、後ろ手に隠していたものをテーブルの上に出す。
スケッチブックだ。
開かれたページには、色鉛筆で描かれた一枚のスケッチ。
「……これって……」
夕陽を背にして、丘の上でピアノを弾いている女性の姿だった。
セミロングの髪を海風に靡かせ、目を瞑って気持ちよさそうに鍵盤に指を置いている。
ドレスを着ているが、この構図はどう見ても
「今の綾乃を描いた。
これは20年ぶりくらい、かな」
宏輔を見た。
20年前に比べて、だいぶくたびれている。
照れた表情は、どことなく情けない。
けれど、素直に嬉しかった。
宏輔が自分を見て、私を見て描いてくれた。
あの頃のように。
少し悔しいけれど、感動してしまう。
「もう。何も言わないで20分も待たせて……」
「ご、ごめん」
ありがとうと言わずに、そう返した。
宏輔も笑っている。涙を流して声を震わせているのだから、もう何もかもがバレている。
「……白髪まで描くなんて、酷い」
「いやあ、やっぱりデザインは忠実でないと」
「目尻の皺まで描いてる!」
「……いやあ、これでもボカしたんだけどなぁ」
陽に照らされて、真っ赤になって泣き笑い。
こんなどうでもいい事を二人で言い合うことも、ずっと無かった。業務連絡以外のことも、私達はちゃんと話せたんだね。
宏輔が鼻を啜りながら、私の両手を取った。
「咲に見つかったんだ。
20年前、君にプロポーズした時に描いた絵」
「そうなんだ」
「忘れてた。綾乃がピアノを弾いてるところが、僕が大好きだってこと」
「そっか。そうだったね」
「言われたんだ。これからは、二人で仲良くしろって」
「うん。私も言われたよ」
「それで、綾乃のこと、また描いてって」
「うん。描いてくれるの?」
宏輔が私の手を握った。
節張って、昔よりも皺の増えた手で。
私も握り返す。
主婦らしい短い爪の、やはり皺の増えた手で。
明日から、少し自分に時間をかけようと思う。
置いていった咲のピアノを、弾いてみようかとも思う。
「描かせてほしい。
20年前には見付けられなかった、綾乃の知らないところが沢山あるんだって、この20分で分かったから」
「仕方ないなあ。
もうふたりだもんね。
これからはじっくり見せてあげるよ」
季節は、夏が終わって秋が来る。
家族もきっとそう。
私達夫婦は、秋に差し掛かっているのかもしれない。
秋枯れなんて言葉もあるけれど、秋は小さく燃えることもある。
夏が終わり、私達は小さい秋を見付けた。
宏輔が、スケッチブックの新しいページを捲った。
鉛筆を私の前に立て、片目で私を凝視する。
「どう? 何か見付けた?」
「……ほうれい線が」
そういうことは、見付けても言わないで。
【END】
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