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3 夫・宏輔
★
咲が現役で合格した音大は、家から70キロも離れていた。
それでも実家から通いたいと毎日電車で往復二時間をかけて通学していた咲だったが、その意地も四ヶ月で折れた。
そろそろ一人暮らしをしたい。
咲からの懇願に、僕達は大学の近くのアパートを借りることにした。
夏休みの終わりに急に決めた割りに、娘の引越し荷物はあらかた整っていた。
瞬く間に今日を迎え、僕は慌ててワゴンタイプのレンタカーを予約する。
恐らく僕に相談する前に、妻とその殆どを済ませていたのだろう。
娘を持つ男親なんて、そんな事の繰り返しだ。
行きの車中は騒がしかった。
助手席に座った咲は初めての一人暮らしに胸躍らせ、どんな生活をしたいかを止め処なく話した。
荷室で入りきらない荷物に後部座席の殆どを占領された妻が、身体を折り畳みながらその話に笑顔で相槌を打っている。
早朝の海沿いの国道はまだ寂しかったが、稜線を縁取る光がその強さを増すのに比例して、対向車が増えていく。混雑する前には、大学のある街に着くだろう。
娘の止まらない話を聞く車内。
それもきっと、これが最後になる。
「ホントは、ずっと家から通いたかったんだけどね」
僕が「羽目を外しすぎるなよ」とか、そんな苦言を零そうとした刹那だった。
咲がそんな言葉を、不意に挿し込んだ。
半開きの口を閉じ、僕は空気を飲み込む。
車が上り坂に差し掛かりエンジンが「重い」と喚き唸っているのに、車内は急に静かになったように感じた。
咲の夏休みも、もう終わる。
そうか、夏は終わるのか。
あんなに騒がしかった蝉の鳴き声も、聞こえなくなった瞬間には、気付けない。
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