弟の訪問

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 はじめは、弟が私の引っ越し先にまで遊びに来てくれたのだと思った。 「突然ごめんね、お姉ちゃん」  まだ小学生の歳の離れた弟の光也が、一人暮らしの私の部屋の前に立っていたのだ。  ドアを開けた時は驚いたけれど、私は弟が大好きなので喜んで部屋の中に迎え入れた。  都内で借りている狭い部屋だけれども、弟のために荷物を寄せて座る場所を作ってあげた。狭い部屋には収納も少なくて、ひとり分の場所を作るのもなかなか大変だ。  そうしてできた隙間に光也はちょこんと腰を下ろした。 「足なんて崩しちゃっていいんだからね」  行儀の良い弟は、姉の私なんかの前でも正座をしようとする。  私が十歳の時に生まれた光也は、今は八歳。私にとってはまだまだ小さくて可愛い存在だ。のびのびしてくれれば良いのにと思う。 「こんな夜にどうしたの?」  光也が好きなコーヒー牛乳を作りながら問う。はちみつをたっぷり入れてあげた。 「お姉ちゃんに会いたくなって」 「可愛いこと言ってくれるなー、姉ちゃん嬉しい」  はいどうぞ、と笑顔でマグカップを弟の前に置きながら、ふと覚えた違和感に心の中で首を傾げた。  よく見ればリュックなどの荷物を背負ってはいない。それに自分で口にしてから気づいたけれど、今は夜の時間だ。 「ねえ、お母さんと来たの?」  私は今年の春、高校卒業と同時に家を出た。光也を置いていくのはとっても気がかりだったけれど、母が再婚し新しい父親ができるというのでむしろちょうどいいかとも考えたのだ。  男同士の家族関係を築いていくのに私がいては邪魔になることもあるだろうと思った。  私の質問に弟は首を振った。いつも無邪気だったこの子が、今はどこか落ち込んでいるように見える。 「でも、うんと遠かったでしょ?」  地元からこの東京までは電車で二時間はかかる。弟の歳でひとりで来られるとは思えないし、それに――。  はっと気づいて私はスマホを手にキッチンに向かった。申し訳ていどに備えられている仕切りを閉める。 「それ飲んでちょっと待ってて。お風呂も湧かしたげるから」  そう言うと光也は素直にうなずいてカップを口に運んだ。  キッチンで電話をかけた相手は母親だった。ほんのワンコールで電話に出たことに驚く。 「ねえお母さ、」  言い終る前に、母親の混乱したような声が耳に飛びこんできた。 「い、今こっちからもかけるとこだったの! ねぇどうしよう、光也が、あの子が……っ」  その後は泣いてしまって話がよく分からない。私は困惑しながらこちらが訊きたいと思っていたことを尋ねた。 「お母さん、落ちついて。もしかして、光也家出をしたの? それなら安心して。いま私の部屋にいるから。住所をあの子に伝え忘れてたはずなのに来たから驚いて、それで電話したの。こっちに来るためのお金はどうしたんだか……」  母が電話をかけて来た内容と私の違和感が合致して、安心して苦笑した。けれど母は私の答えにますます困惑したように、今度は生気の抜けたような声を出した。 「家出……? 何を言ってるの? あの子はずっとこっちにいるわ……」 「えっ……?」  キッチンとの仕切りの向こう、弟がいるはずの場所を振り返る。 「光也はずっとこっちにいて、それで……。き、気づかなかった私がいけないの……!」  母はそうして、泣き崩れた。  弟は今、手術室に入っていると母は言った。  再婚相手の男が、母が気付かないところでこっそり光也に暴力をふるっていたらしい。光也は「お母さんの大事なひと」が怖いことをしてくる、なんてことを母に伝えたくなくてずっと我慢をしていたそうだ。  男の本性を見抜けなかった母もクソで、どんな男が父親としてやってくるのかきちんと見極めなかった私もクソだ。  電話を終えてキッチンから戻った部屋に光也の姿はもう無かった。 「美味しかった。ごちそうさま」と、いまだたどたどしい字で手紙だけ残して、弟はいなくなっていた。  私は急いで家を出て地元に向かった。  新幹線の中、震える手で紙に文字と絵を書いていく。それを握りしめ、弟が手術しているという病院に向かった。  着いた先の病院のベンチでは、母が憔悴しきった顔で肩を落としていた。 「光也は?」 「まだ……」  私は握りしめてきた紙をくしゃくしゃと広げた。私が今住んでいる場所の住所、実家から最寄り駅までの電車の乗り換え方、駅から私の住むアパートまでの道のりの地図。 「今度はこれ見て来なさい、光也……」  住所を知らなくてもお金が無くても私のところに来られたのは、今の光也が霊に近い存在だからだろう。魂だけならきっと、思うだけで会いたい人に会えるのだ。  だけど、駄目。 「私に会いたかったら、生きて足を使って来なさい、光也」  そのための交通費だったらいくらでも渡してあげる。これから何度か引っ越すことがあるかもしれないけれど、そのたびに住所を書いて渡すし乗り換え方法も伝えてあげる。  だから来るなら、生きて会いに来て。  母の隣で私もぎゅっと、祈りの形に手を組んだ。
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