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都内で家賃三万円という破格の格安物件を見つけたとき、まっさきに頭に浮かんだ単語がある。それは最近よく聞かれるようになった『事故物件』という単語である。
霊感はまったくないオレだが、やっぱり気にはなるので、部屋を契約する前に、一応何人かの友人に相談してみた。
友人の半分は、そういう部屋は絶対に『事故物件』に違いないから止めろと言った。残りの半分は、面白いからとりあえず住んでみろと言った。
そして『もう少し慎重に考えたほうがいい』と現実的なアドバイスをしてくれた友人がひとりだけいた。
いろいろと熟慮した末に、結局、格安という言葉に心惹かれたオレは、自分の貯金額とも相談して、その部屋に引っ越すことにした。
一週間後――。
いわゆる心霊現象的な恐ろしいことは一度も起きなかった。オレは激安のラッキーな物件を探り当てたのではないかと思うようになった。
十日後――。
ある問題が生じた。心霊現象ではない。もっと現実的な問題である。
オレの部屋の両隣の部屋から聞こえてくる騒音が日々酷くなっていくのだ。あまりにもうるさすぎて、夜は熟睡出来ないほどだった。
オレは今だに両隣の部屋にどんな人間が住んでいるのか知らなかった。この部屋を紹介してくれた不動産会社のスタッフに、最初に隣近所に挨拶に行った方がいいか訊いたのだが、言下にその必要はないと言われたのだ。都会では、そういう古い慣習はもう残っていないのだろう。
オレは両隣の住人に苦情を言いに行くかどうか迷ったが、とりあえず、もうしばらくの間だけ様子を見ることにした。もしかしたら、騒音ぐらいならすぐに収まるんじゃないかと期待したのだ。
しかし、二週間後――。
オレの期待をよそに、いよいよ騒音が耐えられないレベルまでになった。ここ数日間は耳栓を使ってなんとか騒音をしのいだが、それすらももう役に立たなくなった。
オレはいよいよまだ見ぬ両隣の部屋の住人に苦情を言いに行くことに決めた。自分で言うのもなんだが、穏健なオレとしては珍しいくらいに気も立っていた。眠りが浅いせいで、少し苛立っていたのだ。
もちらん、だからといって、ケンカ腰で両隣の部屋に苦情を言いに行くことはしない。些細な諍いから殺人に発展したという恐ろしいニュースをよく耳にするので、慎重に話し合いをするつもりだった。
まずは右隣の部屋に行った。
「こんにちは。隣に住んでいる202号室の御手洗ですが」
「は、は、はい……なんでしょうか……?」
玄関に応対に出てきてくれたのは、物静かそうな若い女性だった。若干、顔が病的なほど蒼白く感じるが、今はそのことを気にしているときではない。こちらだって寝不足で体調が芳しくないのだ。
「すみません。あの、ちょっと言いづらいんですが……。こちらの部屋から毎晩男女がケンカする声が聞こえてきて……その、このところ睡眠不足なんですよ」
相手を威圧しないように、出来るだけ丁寧に話すことに努めた。
「す、す、すみません……。カ、カ、カレと上手くいってなくて……。あっ、でも、今日からは気をつけることにしますので……」
女性は早口でそう言うと、すぐに玄関のドアを閉めてしまった。向こうだっていきなりうるさいと文句を言われたら良い気はしなかっただろうが、こちらとしても言わざるをえなかったのだから仕方がない。
「まあ、ちゃんとこっちの言い分は言ったからいいか」
オレは次に左隣の部屋に向かった。
「こんにちは。隣に住んでいる202号室の御手洗ですが」
「あの……な、なんですか……?」
応対に出てきてくれたのは、意外にも小学生くらいの女の子だった。
「オレ――いや、ぼくは隣に住んでいる大学生なんだけど、最近、毎晩女の子の泣き声が聞こえてきて、なかなか眠れなくて困っているんだ。もしかして、泣き声をあげているのは君なのかな?」
オレは女の子の年齢に合わせて口調を変えて優しく話しかけた。
「あ、あ、あの……ご、ご、ごめんなさい……。あたしが、悪いんです……。あたしがお父さんとお母さんの言うことをきかないから……それで、いつも怒られてばかりで……」
女の子は小さな体を小刻みに震わせている。よく見ると、手や足に傷やアザがある。なんだかこちらの方が悪いことをしているような気分になってきてしまった。
「あっ、いいんだよ。そんなに怖がらなくても。ただ、もう少しだけ静かにしてもらえると嬉しいんだけど……」
「は、は、はい……分かりました……。これからは気をつけるので……絶対にお父さんにもお母さんにも言わないで下さい! また怒られちゃうから……」
「ああ、言わないよ。だから、もう泣かなくてもいいからさ」
女の子は両目を真っ赤にして、涙をぼろぼろとこぼしている。そういえば、オレはまだこの子の両親を見かけたことがなかった。もっとも、それを言ったら、この子の顔を見るのも今日が初めてなのだが。
「とにかく、今夜から静かにしてくれると嬉しいよ。頼んだからね」
オレは人の良いお兄さんキャラのまま話を終えると、さっさと部屋に戻ることにした。いくら相手が悪いとはいえ、泣いている女の子にこれ以上の苦情は言えない。
その夜――。
両隣の部屋から騒音はまったく聞こえてこなかった。
なんだ、分かってくれたみたいじゃないか。こんなことならば、もっと早くに話をしに行くべきだったかもしれないな。
オレはベッドの上でそう思った。そして、そのまま深い眠りに落ちた。
翌朝、オレは久しぶりに最高の目覚めで起床することが出来た。大学に行って、早く友人たちにこの件について話したくなった。
いつも通りに大学に着くと、友人のひとりがオレに近付いてきた。引っ越しは慎重に考えろと言ってきた友人である。
「なあ、御手洗、ちょっといいかな」
そう言って友人はなぜか人気の少ない大学構内のベンチにオレのことを誘った。
「とりあえず、これを見てくれよ」
友人が差し出してきたのは、ネットのニュース記事をプリントアウトしたとみられる数枚のコピー用紙だった。
「なんだよこれ? 授業で使う資料なのか?」
「いいから、とにかくここに書かれている記事を確認してみてくれ」
友人が急かすように言う。
「分かったよ。そこまで言うのなら、すぐに読んでみるから」
オレは記事に目をやった。時間を掛けずに素早く斜め読みする。そこに書かれていた内容は――。
『恋人から激しいDVを受け、若い女性が死亡』
普段から恋人に暴力を振るっていた男が競馬で大金をすってしまい、その怒りでいつも以上に恋人に暴力を振るい、ついに恋人を殺してしまったという、痛ましい事件を報じる記事だった。
オレは急いで次の記事を読み始めた。
『両親から日常的に虐待を受けていた小学生の少女が死亡』
躾と称して小学生の子供に激しい虐待をしていた両親が逮捕されたという記事である。虐待を受けていた子供は、衰弱が激しく死亡したと書いてある。
「な、な、なあ……こ、こ、これって……ウソ、だろう……? そんなわけないよな……?」
オレが向けた一縷の希望を、友人は首を小さく振ることで完全に否定した。
「これはここ一年の間に実際に起きた事件だよ。御手洗が今住んでいる部屋の両隣で、この二件の殺人事件が起きたんだよ!」
「つまり、それって……オレの部屋が事故物件だったわけじゃなくて――」
「ああ、そうさ。御手洗の部屋の『両隣が事故物件の部屋』だったんだよ! だから、御手洗の部屋も格安で借りられたんだよ!」
「そんな……。こんなことがあるなんて……」
頭の中でいくら否定しようにも、オレが今握り締めているコピー用紙には、はっきりと事件のことが書かれている。これは間違いなく現実なのだ。
「あっ、そうか! あれはそういうことだったのか……」
そこでオレは思うことがあった。
不動産会社のスタッフが『両隣の部屋に挨拶する必要はない』と言ったのは、都会だからそういう慣習は必要ないという意味で言ったのではなかったのだ。
『両隣の部屋には住んでいる住人がいないから、そもそも挨拶の必要がない』
そういう意味で言ったのだ。
「えっ、待ってくれよ……。それじゃ、オレが昨日話した……あの住人はいったい……。あの女性と……あの女の子は……」
急に体が激しく震え出した。自分で自分の震えを制御出来ない。
「おい、御手洗、しっかりしろ! 御手洗!」
友人の呼ぶ声が遠くに聞こえる。
そうか、オレは昨日、恋人に殺された女性と、両親に殺された少女に苦情を言ってしまったんだ……。
急激に意識が遠ざかったいく。次の目覚めはきっと人生最悪の目覚めになりそうな予感がした――。
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