引っ越しのJAM

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聞き耳を立てて良いことなんて一つも無い。 コーヒーを飲みに来て正解と思っていた数分前の僕の浅はかさに嫌気が差す。聞かなきゃ良かったことを聞いてしまっただけだった。 給湯室から二人が出てくる気配がするのに、僕はその場から動けないでいた。このまま鉢合わせして僕を見て彼女がどんな顔をするのかとても気になるのに怖くもあった。けれど体が言うことを聞かない。 「……お疲れ様です」 出てきた二人に恐る恐る声を掛けた。 「お疲れ様ですー」 「お、お疲れ……」 目が合った瞬間、彼女の大きな瞳がバツの悪そうに揺れて、直ぐに伏せると、そのまま僕の前を通り過ぎて行った。 問い詰めるべきか、聞かなかったことにするのか。選択肢の間を行ったり来たりして後頭部を荒く掻いてからため息をつき、その反動で空気を思い切り吸い込む。 「――佐幸!」 一瞬ピクリと肩が揺れたけれど、僕の呼びかけにも彼女は立ち止まることなくオフィスへと足早に戻っていった。行き場を無くした僕の声は真っ直ぐ廊下を突き進んで消えていった。 佐幸にこ、僕はあなたの彼氏、だよな――……? その後は案の定仕事に一切身が入らなかった。 彼女が引っ越しを繰り返す理由は男だった。しかも業者の。それも逃げているのではなく、追っかけている方だ。僕の熱い想いは彼女に届いたんじゃなかったのか、僕はいいように弄ばれたのか。 『せっかく同期なんだし、いっしょに仕事頑張っていこう』 僕が仕事でミスをした時、僕を見放すことなく深夜まで一緒に残業してくれた。 『感動する映画見て、たくさん泣くと気晴らしになるよ』 そう言ってヘコむ僕を映画館へ連れ出してくれた。 『一生懸命仕事してるキミはかっこいいよ! そばでちゃんと見てる私が言うんだから間違いないよ! もっと自信もって』 いつもそばで僕を支えてくれた。 彼女は女神だ。 彼女がいたから僕はこの会社で働き続けられた。 引っ越し業者とのことは、きっと何か深いわけがあるに違いない。僕が世界で一番彼女を愛しているし、彼女に愛されているのはこの僕で「なっち」という男が彼女を唆している。貢がせるなんて最低な男から僕が彼女を守ってみせる。 帰宅後、晩ご飯もそこそこにパソコンを起ち上げると、ディスプレイと向かい合いパチパチとキーボードを叩いた。 ――引っ越しのJAM……。JAMはジャスト・ア・モーメントの頭文字のようだ。 『その引っ越しちょっと待った、でお馴染み引っ越しのJAMは、お客さまの要望にお応えして、ご希望のシチュエーションであなたさまのお気持ちを全力でお引き留めいたします。 シチュエーション例。亡くなった旦那様(奥様)と思い出を語る、未練タラタラの元恋人に泣きつかれる、親御さんに引き留められつつ背中を押してもらう、など。 演者の指名制度あり(特になければ最適の相手役をこちらで選ばせていただきます)』 演者一覧のタグをクリックすると、顔写真がずらりと表示された。画面を下げていきながら僕は「なっち」という男を捜した。ああ、こいつか。 『お気持ちの整理がつき、心がご満足いただけましたら、その後に引っ越しの作業に取りかからせていただきます。 私たちがきっとあなた様の心の引っ越しもお手伝いいたします。 ※ご希望のシチュエーションと詳細についてはお申し込み完了後メールにてご連絡いたします』 「……なるほどそういうこと、か」
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