引っ越しのJAM

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「おい、営業の佐幸(さゆき)、また住所変更申請出してきたぞ」 「は? またですか?」  午前中の発注ミスによるクレーム処理がようやく落ち着いて、やっとの思いでたどり着いた社食で不動の人気メニューのカツカレーを頬張っていると、背後の席に座った人事課の人間だろうか、大きなぼやきが聞こえてきた。 「半年も経たずに四回も? いやいやその度に通勤手当の再計算やら保険の変更手続きやら、何度手間をかけさせるんですか」 「まあ、なんか理由があるんだろうが、さすがにここまで引っ越しを繰り返すヤツはいないな」 頬張っていたカレーをよく噛まずにごくりと飲み込み聞き耳を立てる。その会話にアンテナがびびびと反応したのには理由がある。 僕は椅子に深く座り直しゆっくりと背もたれにもたれ掛かった。 「どんな理由があるってんですか」 「さあ。隣人とのトラブルなのか、居心地が悪かったのか、単に飽き性なのか」 ぼやきの対象の佐幸にこ。 彼女は同期で、営業課のエースで、つい最近僕の熱い想いが届いた相手である。奇しくもその名が聞こえてきて、意思とは関係なく聴覚が研ぎ澄まされるのは致し方ない。 「まさか男から逃げ回ってるとか」 下世話な。 今の今までがっついていた衣が薄めのカツも、スパイスの香りが癖になるカレーも、一瞬にしてどろりとしたスライムみたいに思えてスプーンを持つ手に力が入る。 「まあ美人だしあり得なくもないが、それにしては引っ越しする必要があるのかってくらい近所なんだよ」 「なんすか、改めて過去の住所も調べたんすか。あれれ、藤田さんってもしかして……」 意味ありげな声のトーンと不快な間。人事課の人間のニヤニヤとしたイヤらしい顔を想像するには容易く不愉快極まりない。まさか、職の特権を利用して彼女に取り入ろうなどと非道なことを考えているのでないのか。 「地元だから土地勘あるんだよ」 「ふうん、そうなんですか」 「そうだよ、あ、部長から電話――はい、藤田です……、え! あ、はい直ぐ行きます」 人事課がいち社員――佐幸にこの個人情報を利己的に悪用したならただじゃ済まさないと思っていたが、奴らは上司の鶴のひと電話でバタバタと食堂を後にした。 人事部長に救われたな、と、フンと鼻を鳴らした。 しかし、彼女が引っ越しを半年で四回も繰り返していることが事実であれば、そのことを僕はまだちゃんと聞いていないし、その理由も気になった。 社食を後にした僕は足早に階段を登る。 まずもって佐幸にこは女神である。 その容姿はさることながら、頑張り屋で人当たりも良く社内に限らず取引先からも評判の良い彼女は、なによりいつも笑顔なのが最高だ。その彼女がご近所トラブルなどあり得ないし、部屋に合うインテリアをDIYしている彼女は、居心地の良い空間など自ら造り上げる。器用でオシャレで倹約家で、一緒に生活したらさぞかし楽しいだろうなと妄想は膨らむばかりだ。 ――男から逃げ回っているとか。 下世話な。下世話だが、もし。もしもだ。もしも本当にストーカー男から逃げていて、怖い思いをしているのならどうにかして助けたい。それが僕の使命だとも思っている。ふつふつと腹の底から感情が湧き上がってきて体が熱い。
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