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昼休憩の時間も過ぎ、活気の戻った営業課のオフィスを覗くと彼女の姿はなかった。
佐幸にこ・外回り~十五時戻り
ホワイトボードのマグネットを確認して何気なく彼女のデスクへと近づく。キレイに整理整頓してあり、使っている小物も可愛く、なんだかいい香りもしている。緩みそうになる顔をなんとか繕って周囲を伺うが、皆忙しなく働いていて僕のことなど気にする様子は無い。
――ヴヴッ。
聞き慣れた物音のした方に目をやると案の定そこにはスマホが残されていた。
「持って行くの忘れたな。まったくおっちょこちょいなんだから」
そんな少し抜けた彼女もまるっと全て愛している。
そっとスマホに触れると画面が明るくなり通知の内容が表示された。
『引っ越しのJAM――この度はお申し込みありがとうございます。日時の最終確認メールです――……』
※
せめて就業中は仕事に集中しなければと、コーヒーを飲みに来て正解だった。
「あ、そういえば佐幸さん、引っ越しのJAMどうでした?」
「あのね吉良ちゃん……、めっ……ちゃくちゃ――よかったの!」
「でしょ!」
給湯室では外回りから戻った彼女と、別の課の女性社員がひと息休憩に来てきゃっきゃと雑談していた。その内容は「引っ越しのJAM」のことだ。先ほど彼女のスマホに通知が来ていた引っ越し業者だ。
彼女は近々また引っ越しをするつもりらしい。
なぜ引っ越しを繰り返すのか、なぜそのことを僕にも打ち明けてくれないのか。僕は引っ越しのことが気がかりで仕事に集中できないでいた。だから盗み聞きはいけないと思いながらも、すっと身を翻し壁に張り付いて聞き耳を立てた。
「私もうハマっちゃって。あの後同じ人を指名して三回も引っ越ししちゃって」
「え! JAMを利用するために引っ越しを三回も? それって貢いでるようなもんじゃないですか」
「ヤバいかな? ヤバいよね。でももう沼っちゃってどうしようもなくて」
指名して沼って貢ぐ――……?
トラックに乗ったホストみたいな引っ越し業者がぐるぐると頭の中を回り始める。
「ちなみに、誰です?」
「なっちさん」
「ああ、あの美しい顔の! ……へえ、佐幸さんってなっちさんみたいな人がタイプなんですね」
「むふっ。そうなの。でもねそれがね、見た目だけじゃなくて声も大好きで、耳が溶けそうなの。本気にしちゃダメって分かってるのに、もう止められなくて」
「ちょっとちょっとー、気をつけてくださいね? でも、同棲中だった元彼と別れた時の傷が浅く済んで、私としては佐幸さんが元気になってくれたんで良かったですけどね」
そうだ、ちょうど半年前、同棲中だった彼氏と別れたと聞いて僕は彼女にアプローチを開始した。彼女のSNSには全て「♡」を付けたし、DMでデートのお誘いも何度となくした。偶然を装って会社入り口で通勤してくる彼女を待って毎日「おはよう」を伝えた。まさかその時すでにその引っ越し業者と関係をもっていたなんて。息が止まりそうだ。
「ありがとね、吉良ちゃん……! もう元彼のことなんてすっかり忘れ去ってたよ。ち、な、み、に、再来週また引っ越しするんだあ」
「――はあ? またですか? もーほんとに大丈夫なんですか? ほどほどにしてくださいよ」
「へへ、心配してくれる吉良ちゃんの愛、ちゃんと感じてるよ」
「そんなこと言って、引っ越し破産とかやめてくださいよ。でもー……、また今度、シチュとか詳しく教えて下さいね!」
「むふふっ。おっけー!」
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