引っ越しのJAM

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「ちょっと、来てくれる?」 朝礼が終わると経理課まで僕を探しに来た彼女に心が震えた。配られた会議の資料を抱えたまま、カツカツとヒールを鳴らしながら足早にテラスへ出る彼女を追った。この感じ、入社して直ぐはよくこうやって二人で社内を歩いていた記憶がくすぐったくて思わず笑みが零れる。 テラスの隅、人目の付きにくいところまで来ると、やっと二人きりになれて僕は天にも昇るような気持ちだった。 彼女は思いきったように振り返りスマホを掲げた。 「これ、なに?」 「ああ、それ、昨日僕が送ったDM?」 「そうだけど、こんなの送ってこられると怖いんだけど」 「え?」 昨夜、引っ越しのJAMについて調べて、僕がなっちという男の代わりに彼女の力になれるならと「引っ越し手伝うよ」と送ったものだ。 「え、怖いって? どうして」 「どうして私が引っ越しすること知ってるの?」 「ええ、と……、給湯室で話してるのが聞こえて……」 「立ち聞きしてたの?」 「ご、ごめん、そんなつもりは無かったけど、でも、僕という彼氏がいながら他の男にうつつを抜かすのはどうかと思う、し」 「――は?」 彼女の凄んだ低音に驚いた僕の手の中からばさっと音を立ててA4サイズのコピー用紙の束が落ちて散らばった。 「マジで怖いんですけど! いつ私がアンタの彼女になったの」 風で飛びそうになるコピー用紙も、空を高々と飛ぶ鳥たちも、外を行き交う人間も、世界の全てがスローモーションに映って僕の思考も鈍っていく。 「……え、でも、……ほら、この前、僕に笑いかけてくれたじゃ、ん……」 「そんなことした覚えはない! それだけで彼氏になったとか……ありえない! もういい加減にして。会社の同期で同僚だから今まで我慢してたけど! これ以上付き纏うなら、警察に突き出すから」 「え……え……、ま……って……」 彼女は僕を一瞥すると踵を返して目の前から去って行った。 ああ、そういえば、こうやって彼女とちゃんと話しをしたのは二年前が最後だ。 それからずっと僕は彼女に避けられてたんだっけ。 最初に僕を避け始めたのは、前の彼氏と同棲を始めた時だった。きっと彼氏が僕と話しをしないように見張っていたに違いないと思っていた。だんだん元気のなくなっていく彼女を見ていられなかった。きっと僕と彼女の関係を疑って、彼氏から束縛されているであろう彼女が可哀想でしかたがなかった。 だから僕が助けてあげた。 なに、何度かちょっと刃物で脅しただけだ。尻尾巻いて逃げていった甲斐性の無いあんな男、彼女には釣り合わない。 結局、なんだかんだ一年半も掛かってしまったけれど、念願叶って二人は別れて、言わずもがな同棲も解消された。 これで彼女はなにも躊躇うことなく僕の元へ飛び込んでこれる、そう思っていたのに彼女は僕を避けたままだった。 今こそ僕の愛をきちんと示す時だと、彼女のSNSには全て「♡」を付けたし、DMでデートのお誘いも何度となくした。偶然を装って会社入り口で通勤してくる彼女を待って毎日「おはよう」を伝えた。返事をしてくれたことは一度もなかったけれど、それは恥ずかしがり屋で奥ゆかしい彼女だから致し方ないことだと思っていた。 すっかり忘れていた。どこで歯車がかみ合わなくなっていたのだろう。 でもまあそんなこと、どうでもいい。 僕はもう、彼女の同期でも同僚でもない。 僕はまだ、彼氏になれてなかっただけだ。
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