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それからすぐ、僕は会社を辞めた。
急過ぎて送別会は開かれることはなかった。みんなが僕のことをどう思っているかなんて興味はなかったし、とくに親しい同僚はいなかったし、惜しんでくれる部下もいない。直属の上司からは「頑張れよ」とだけ言葉をもらった。別に悲しくもなければ寂しくもない。
ただ、もう一度だけ同期として彼女と挨拶を交わしたかったけれど、それは叶わなかった。
でももうそんなことどうでもいい。
今日から僕は気持ちも新たにスタートを切る。職場を引っ越したと思えばいい。
彼女のために。
これで僕たちの歯車は再びうまく回り始めるし、今度こそ僕が彼女を支える番だ。
僕は真新しい帽子を被り直し、インターホンを押す。
――ピンポーン。
「こんにちは! 引っ越しのJAMです」
『はあい、今開けます』
二週間ぶりに聞いた彼女の声に心が震える。彼女もきっと僕の到着を心待ちにしていたに違いない。
ガチャリと玄関が開き、どうぞと招き入れられる彼女の部屋。彼女の香りに包まれて僕は天にも昇る気持ちがした。
深く深く深呼吸をしてから被っていた帽子を脱いだ。
「――ひっ」
彼女の持っていた写真立てがごとりと落ちると同時に上げられた小さな悲鳴。
僕は新人研修で習った通りの満面の笑顔を浮かべ決まり文句を言う。
「僕がきっとあなた様の心の引っ越しもお手伝いいたします」
そして僕は、後ろ手でガチャリと玄関の鍵を閉めた。
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