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休日に部屋でくつろいでいたらインターフォンが鳴った。
誰だろう? 心当たりがない。またうさん臭い勧誘だろうか。どのみち誰か分からない場合は出ないに限る。
僕がしばらく居留守を使っていると、玄関の方から女性の声がした。
「すいませーん。今日隣に引越してきた者なんですけど」
やけに明るい声だ。僕はこっそり玄関に近づき、ドアの覗き穴から外の様子を見てみた。
綺麗な女性が二人並んでこちらに微笑みかけている。歳は僕と同じくらいだろうか。近くにある女子大の新入生かもしれない。二人とも手に紙袋を下げている。
この人たちが隣に越してきたなら最高じゃないか。そういえば最近、駐車場にアパートの管理会社の車がよく停まっていた。新しい住人を迎えるため、空き部屋の掃除をしていたのだろう。
僕はドアを開けた。開けない理由がなかった。
「こんにちは。今大丈夫でしたか?」
丁寧にお辞儀をする二人に、僕は「はい。大丈夫です」とおおらかに返した。
「ちょうど暇してたので」
「よかった。私たち、今日から隣に住むことになったのでご挨拶しておこう思って」
「ああ、そうなんですね」
「はい! これからよろしくお願いします」
「どうも、わざわざありがとうございます。ええと、どっちが空いてましたっけ」
僕はさりげなく廊下に身を乗り出し、左右の部屋を見比べるような仕草をした。片側はドアに隠れて見えなかったが、そんなことはどうでもよかった。女性からふんわり漂ってくる香りの甘さに、僕はとろけそうになるほど酔いしれていた。
「両方空いてましたよ」
僕の下心などつゆ知らず、一人が陽気に言った。なるほど、どうりで最近廊下であまり人とすれ違わなかった訳だ。
「こっちが私の部屋です」
一人が左を指差した。
「え?」
「私はあっち」
もう一人は反対側を指差した。
「ちょうどタイミングが重なっちゃって」
「ええっと?」
今度は目の前の女性たちを見比べるように、僕は頭を左右に振った。両者とも似たような背格好で、同じくらい愛想のいい笑顔を浮かべていて、同じくらい綺麗だ。
双子のようだとまでは言わないにせよ、二人の仲がいい姉妹のような関係性は見ているだけで伝わってくる。でないと初対面の男を前に、こうまでにこやかに笑ってはいられないだろう。僕はてっきりこの二人が同じ部屋に住むのだと思っていた。
「別部屋なんですか」
「はい。私が305号で」
「私が307号です」
なるほど、そして僕が306号という訳だ。これはいい。
僕の住んでいるアパートは家賃や築年数などの条件がいい割に空室が多く、静かではあるけども退屈だとずっと思っていた。だがやっと明日からは刺激的な毎日が送れるかもしれない。
「どうぞ。つまらないものですけど」
二人は同時にそう言って、こちらに紙袋を差し出した。どちらも中に白い箱が入っている。
僕は照れながらも両手を前に出した。二人は左右から、同時に袋を持たせてくれた。なんだか物凄く贅沢な気分だ。顔の火照りを感じつつも、僕はお礼の言葉を口にした。
「どうもありがとうございます。こちらこそよろしくお願いします。あ、僕は去年から住んでるので、分からないことがあったら何でも聞いて下さいね」
「いいんですか? 嬉しい、頼りになるね!」
「うん!」
二人は満面の笑みを浮かべて頷き合った。こっちが恥ずかしくなるくらいの喜びようだ。
そんな僕の気まずさを察したように、女性たちはこちらを向いてもう一度深くお辞儀をした。
「これからよろしくお願いしますね」
もう少し話していたいが、あまり引き留めてもいけない。潔さが肝心だ。
「こちらこそ」
僕は挨拶を返すとすぐにドアを閉めた。話す機会はこれからいくらでもあるだろう。
壁の向こうで足音が二つ、逆方向へ遠のいていった。そのままほとんど同じタイミングで両隣のドアが開いた。閉める音もほとんど重なって聞こえた。よくここまで息が合うものだ。
しかしそれはそれとして、左右どちらからも鍵を開ける音がしなかったのは問題だ。今どきはゴミ捨ての時なんかでもドアや窓にしっかり鍵をして出るのが常識だろうに。
防犯意識についても今度話しておこう。ひょっとしたら、詳しく教えてほしいと頼まれるかもしれない。
そんなことを考えつつ、僕は女性たちからもらった紙袋の中を覗いた。よく見ると箱と一緒にぶ厚い紙が入っている。ずいぶんカラフルで、スーパーの広告みたいだ。
菓子屋の広告でも入っているのだろうかと、僕はそのうちの一枚を取り出した。そうして紙面を目にした途端、自分の舞い上がっていた気持ちが急激に沈んでいくのを感じた。どうやら広告は広告でも、だいぶ内容が偏ったものらしい。新聞の見出しみたいに大きな文字で、「絶対の信頼こそ幸せへの近道」と書かれている。
真ん中には全身赤い服を着た中年男性の写真が大きく貼られている。写真の周りには文字列がぎっしり並んでいるのだが、これが暗号のようでうまく読み取れない。
解読しようとしても専門用語が多すぎて内容が頭に入ってこないのだ。ただ危険さだけは、嫌というほど伝わってくる。
「やべえな」
僕は思わず呟いた。するとすかさずインターフォンが鳴った。独り言まで盗み聞きされているようで、僕は飛び上がるほど驚いた。
「すいませーん」
また女性の声だ。僕はとっさに身構えた。しかしあの二人より言い方が優しい気がする。
「今よろしいですか?」
やっぱりさっきとは別の人だ。それに考えてみれば、隣室から玄関のドアを開けるような音は聞こえてこなかった。あの二人に僕の出す声や音が聞こえるように、こっちにだってあの二人の動きは掴めるのだ。
僕は覗き窓に目を近づけた。また女性が二人、微笑を浮かべて立っている。
今度はまともな人たちじゃないだろうか。顔立ちも穏やかだし、笑顔も控えめで、あの変な広告を押しつけてきた二人組とは大違いだ。あんなにおかしな来客が二度続くこともさすがにないだろう。
しかし油断は禁物だ。僕はしっかりチェーンロックをかけてドアを開けた。
「こんにちは。お忙しいところすいません」
狭い隙間の向こうで、二人はゆったりと頭を下げた。僕よりもだいぶ大人だ。落ち着いた化粧が艶かしい。未知の色気に酔いそうになっている僕に、二人は声を揃えてこう言った。
「私たち、このアパートに引越してきたばっかりなんです」
またか。
まさかさっきの二人の姉だったりはしないだろうな。僕は左右にちらりと目をやった。その隙をつくように、二人は後ろ手に持っていた紙袋をドアの隙間から押し込んできた。
「つまらないものですが。よろしければ受け取って下さい」
高く清らかな声が重なり、まるで歌を聴いているようだ。僕はぼんやりした意識の中で、いつの間にか袋を受け取っていた。
テーブルの上に並んだ四枚の広告。赤い男の姿が四つあれば怪しさも四倍だ。それにびっしり並んだ文字を眺めていると、そのうち呪文が浮かび上がってきそうで気味が悪い。
「引越そうかな」
テーブルの隅に積まれた四つの箱に目をやりながら、僕は一人呟いた。包み紙のシールを見た感じ、あれは近所の有名な菓子屋で買ったものだろう。
試しに一つ開けてみようか。
そう思って手を伸ばした途端、部屋中にとんでもない騒音が流れ始めた。これは音楽なのだろうか、途切れることのない轟音に壁が軋んでいるのが分かる。
耳を塞いだくらいではとても防ぎきれず、僕は床に屈み込んだり室内を駆け回ったりして逃げ場を求めた。しかし音は上下左右から響いてくる。逃げ場はどこにもない。
よく聞くと意外に陽気な曲のようで、テンポよく足踏みする音も聞こえてくる。男性の甲高い叫び声も。あれが写真の男の声だろうか。まるで鳥の鳴き声だ。音の大きさよりも、高さが耳障りで仕方がない。
もう一旦部屋を出ようと、僕は玄関まで走った。しかし音楽に混じって、かすかに女性たちの声が聞こえてくるのに気づいて足を止めた。
何と言っているのだろう。僕は耳を押さえつけていた手の力を、そっと緩めた。
「人を信じましょう! 自分を信じましょう! 人間を信じましょう!」
四人の女性が繰り返し繰り返しそう叫んでいた。涙が出そうだった。調子が完全に揃っていることよりも、一人一人の声がすぐ近くから聞こえてくるのが恐ろしかった。そして自分があの人たちに抱いてしまった信用と期待の儚さが悲しかった。
「引越そう!」
僕は誓うように叫び、部屋を逃げ出した。
部屋に戻るまでにいろんなことを考えた。
あの人たちと仲良くなれるなら、もうしばらく住み続けてみるのもありかもしれない。何と言っても僕が四人の真ん中にいるのだ。
しかし朝や晩にあれだけ騒がれるのは困る。いや、うるさいだけでは済まないかもしれない。知らないうちに金をむしり取られることだって十分にあり得る。
とはいえ時間が経ってみるとあの四重に響く声は、胸の底から元気が湧いてくるようで心地良かった……。
一時間ほど外を歩き回り、僕はアパートに戻った。部屋はもうすっかり元通りになっていた。音と声は消え去り、床に放り出された毛布や倒れたペットボトルからその爪痕が見て取れるだけだった。こうなると、隣室から届く小さな物音の方が気になってくる。
僕は右側の壁に耳を当てた。305号の女性は今、ちょうどシャワーを浴びているようだった。歌ったり踊ったりしたせいで汗をかいたのだろう。
壁から離れ、部屋の真ん中辺りに座っていると、天井から軽く床板を打つような音が響いてきた。上で肘か膝をついたのかもしれない。それなら今あの女性は僕の真上にいるのだろうか。
想像はいくらでも膨らむ。そういえば両隣に住んでいるあの二人は今、玄関の鍵を閉めているのだろうか。
音を聞いているだけでソワソワしてくる。この高揚感こそ僕が求めていたものだ。
やはり、しばらくはここで過ごそう。お互いに誤解があるかもしれないし、きっと和解していける部分もあるだろう。引越すのはできることを全部し終えてからでいい。
僕は息を大きく吐き出した。隣からそれに応じるように壁を引っ掻くような音がして、振り返るとテーブルの上に積まれた四つの箱に目が留まった。
せっかくもらった物だ。僕はそれが誰から受け取ったものかも分からないまま、一つ目を開けた。やはり高級店で買ったらしく、箱の中には飾り物みたいなチョコレートが整然と並んでいた。
四箱もあればしばらくもつだろう。僕は真ん中にあった、白いハート型のチョコレートを口に放り込んだ。
甘い。最初に来た二人がつけていた香水の香りを思い出す。アルコールでも入っているのか、それともあの二人の笑顔を思い出したからか、また頭がふらふらしてきた。脳裏に四つの笑顔が浮かぶ。誰が誰なんだろう。
二つ目、三つ目と、僕は甘い塊をどんどん口の中に投げ込んでいった。次第にさっきまで自分がウジウジと悩んでいたことが馬鹿らしく思えてきた。
引越した先に一体何があるというのか。美人に囲まれて毎日を過ごすなんて男の夢じゃないか。
インターフォンが鳴った。
「あの、晩ごはん一緒に食べませんか?」
誰かの声だ。僕は「はい」と返事をしたつもりだったが、まともに声が出ていないのが自分でもよく分かった。よろめきながらも立ち上がり、玄関を開けた先には四人の女性が勢揃いして僕を待っていた。
四人とも怪訝な顔をしている。何があったのだろう。前とは着ている服も違うようだ。四人全員が赤い服を着ている。
どこかで見たような気がするが、そんなことはどうでもいい。あの赤い服の生地の薄さこそ問題だ。ほとんど肌が透けてるじゃないか。
違う。大事なのは四人が笑っていないことだ。僕は女性たちに近づこうとして、石畳に倒れ込みそうになった。四人はとっさに両脇を支えてくれた。
「大丈夫ですか?」
左右から耳元で囁かれ、僕は返事をすることもできずにヘラヘラと頷いた。
「転んじゃいますよ。歩くのきついですか? じゃあこのお部屋借りてもいいですか? ここでみんなでごはん食べましょう」
四人に支えられ、僕は部屋の中に連れ戻された。自分が今どこを歩いているのかも、四人がこの部屋にいる理由も分からない。だんだん意識が遠のいていく。
ふと鍵を閉める音がしたのに気がつき、僕は何回か瞬きした。いつの間にベッドまで運ばれたのだろう。すぐ近くから、女性たちの声が聞こえてくる。
「一箱全部食べたみたい」
「やばくない? 吐き出させる?」
「いいと思うよ。大人なら一箱でも大丈夫だったはず」
「分量もちゃんと教えていかないとだね。信じる前に死んじゃうよ」
何やら話しているようだが、言葉は入ってくるのに意味がとらえられない。頭がとろけるように熱い。
やがて室内がしんと静まり返った。四人が帰ってしまったのではと心配になり、僕が頭を起こすと、ちょうど彼女たちもこちらを向いた。そうして僕に近づいてきた。四人とも妖艶な笑みを浮かべている。
これから僕の身に何が起こるのかは分からないが、ただ一つだけはっきりと言えることがある。
今この瞬間は間違いなく、僕は幸せ者だということだ。
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