契約更新

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「引っ越そうと思うの。」  彼女の告白は至ってシンプル。しかし、その言葉は僕を困らせるには十分だった。彼女は続ける。 「友達が今住んでいる家から引っ越すらしくて、立地も部屋の間取りも家賃も私にちょうどいいしさ。この家の契約更新ももうそろだし。四月からはそこに越そうかなって。」  僕は恐る恐る聞いてみる。 「どこらへんに引っ越すのさ。」  彼女は何も気にしていない様子で答える。 「大学の裏門の方。ドラッグストアあたりっていったらわかるかな?そんなことより、明日回転寿司行くって話したじゃん?」  最悪だ。想像もしてなかった最悪の事態に僕は焦った。 「そんなことよりじゃないよ!どうしてまた急に引っ越すだなんて。ここだって、立地も間取りもめちゃくちゃいいじゃん。」  僕は焦りを隠そうともせず彼女に問うた。 「そうだけど知っての通りこの家、築四十年なだけあって冬は寒いし夏は暑いじゃん。隣の音も聞こえてくるし。前々から引越し自体は考えてたのよね。」 「僕はそうは思わないけどな。引越しってお金かかるし考え直そうよ。」 「そんなこと言って引っ越して欲しくないのは優が不便になるからでしょ?」  そうなのだ。彼女にここを引っ越されて困るのは僕だけなのだ。さっきから僕が、彼女彼女といっている彼女もとい、林田有紗は正真正銘、僕の彼女だ。僕らはいわゆる半同棲状態。僕はバイトが終わるといつも有紗の家に泊めてもらっている。  なぜ自分の家に帰らないかそれは僕を取り巻く環境の配置にある。僕の家から出発して一本道に順にバイト先、有紗の家、大学とあるため、バイトが終わったあとに大学まで片道三十分かかる自宅に帰るより、有紗の家に向かった方が移動距離が少なくて済むのだ。  しかし、引っ越すとなると話が変わってくる。有紗が引っ越そうとしている物件はさっきの話を聞くに、今の有紗の家と大学の距離自体は変わらないが、僕のバイト先からは遠くなる。つまり、位置関係的には僕の家からバイト先、今の有紗の家、大学、引越す(仮)物件となる。  そうなると僕はバイト先から有紗の家が遠くなるだけではなく、僕の家からも有紗の家が遠くなり、不便さが格段に上がるのだ。新年度からそこに住むとなると、この便利な立地も残り三ヶ月ほどということだ。何より僕は、有紗と会える機会が減ってしまうのがとても悲しい。死んでも本人には言えないが。 「頼むから考え直してくれよ。」  僕は情けない声で頼むが、 「私何度かあの子の家遊びに行ったことあるけど築年数も浅いし、素敵な家だった。私の中では引越しはほとんど確定してる。諦めなさい。それより話途中だったけど明日行くって言った回転ず…」 有紗は僕の話など知ったこっちゃない様子で、明日行く予定の回転寿司のクーポンの話をし始めた。このままではまずいと思った僕は咄嗟に話を遮り、口走った。 「勝負しよう。」  有紗がクエスチョンマークが浮かんだ顔をしているので続ける。続けると言っても思いついたままを喋っているだけなのだが。 「僕が勝負に負けたら、引越し代を半分負担する。僕が勝負に勝ったら引越しは取りやめる。どうだ、悪くない話だろう?」  有紗は負けず嫌いな子だ。きっと乗ってくる。 「いいわね、面白そう。受けて立つわ。で、何で勝負するの?」  確かにそれは考えて無かった。 「一日待ってくれ。勝負の内容考えてくるから。僕の方がリスクが高いんだ。種目くらい決めていいだろう?」 「いいけど、あまりにも優に有利すぎる内容だと、この話は無しにしてすぐ引っ越すからね。」  勿論だ。絶望の状況から少しだけ光明が差し込んだ気がした。  来客の合図の鈴が鳴る。僕はいざ接客に行かんと、玄関の方に向かったが、同僚が先に対応してくれた。となると、僕がお冷を出さねばなるまい。注文を聞き、キッチンに行く。注文のサラダを作っていると先ほどの同僚が声をかけてきた。 「浮かない顔してどしたの?」  そりゃあ浮かない顔にもなる。なにせ、これから向かう彼女の家が今度の勝負に負けたら三ヶ月後には、引っ越しにより向かえなくなるからだ。引越し代も半分負担しなきゃだし。勝負の内容もフェアな内容じゃないとお話にならない。丸一日考えたが、有紗が勝負に乗りそうで僕が勝てそうな種目は思いつかなかった。 「いやー、かくかくしかじかあってね」 「やっぱりコロナ禍前にマスク会社の株持ってた人は今頃ウハウハだろうっていう話ね」 「適当に返事するなよ。」 「そっちこそ」  こういう会話をしてると、この子もとい、石田光はやっぱり有紗の友達なんだなと感じる。次こそ、かくかくしかじかと、僕が浮かないわけを説明した。勿論有紗と会える機会が減るのが寂しいという感情だけは隠して。  「あー、その話なら知ってたよ。だってその友達の家って私の家だもん。私的にはあの家広すぎるし、ここからも遠いしさ引っ越そうと思うっていう話を有紗にしたらじゃあ私がここ住むって話になって。でも車持ってない優くんからしたら確かにあの家は遠いね。」  なるほど。こいつが元凶だったか。確かに車さえあれば不便さは解決する。 「でもなんだかんだ言って有紗の引越しが嫌なのって彼女と会える機会が減っちゃうのが寂しいからなんじゃないの〜?」  言い方がとてもムカつくし、やっぱり男としてはそういう感情がバレてるのは恥ずかしい。言葉に詰まっていると光がニヤニヤしながらこっちを見てきた。僕は拒否の意を示すべく、作っていたサラダを彼女に渡した。  有紗と出会ったのは大学一年の頃。可愛くて、サバサバした物言いの有紗はサークル内で、特に異性の人気を集めていた。  そんなサークル内のマドンナと冴えない僕が何故付き合えたかと言えば、話せば短い。二人ともかなりの映画好きなことがわかり、それが分かったタイミングで二人が好きな監督の映画の最新作が上映されていた。そこから二人の時間増えていった。  二人で過ごせば過ごすほど僕は有紗に惹かれていった。僕が告白して付き合うことになってもうそろそろ一年経つ。  有紗はモテるし、サバサバした性格ゆえのかっこよさに僕は不安も覚えることは前々からあった。そして、今回の引越し。僕が有紗の家の立地に助かってることは有紗も知っているはずだ。  それに何より、あの立地のおかげで家も近くない僕らはゆっくり二人の時間を過ごすことができていると僕は思っていた。それを積極的に手放そうとしていることが分かると、やはり有紗は僕のことはそこまで好きじゃないんじゃない。そんなネガティブな考えまでが浮かび上がってくる。  回想を終えると、いつのまにかバイトも終わりかけていた。気づけば光が横に立っている。 「今日はほんとに一日中ぼーっとしてたね。」  ぐうの音も出ない。それに自分のプライベートのことで頭を悩ませ、仕事に集中できずに、同僚に迷惑をかけるのは本当に申し訳ない。 「それはそうと、有紗と何の勝負するか決まったの?」 勿論決まってない。眉をひそめると光が耳元に寄ってきた。 「いい考えがあるの。」 と囁く彼女は、悪いことを考えていることが分かる満面の笑みで、僕は悪魔との契約を錯覚した。  光との連絡を終えて、回転寿司に行く準備をしていると、優がバイトから帰ってきた。何やら急いでいるようだが、光に言われた通りのことを言おうとすると、優が話を遮ってきた。 「勝負、決めたぞ。」  なんだかすごい形相で話しかけてくるもんだからこちらも少し退いてしまう。 「で、何にしたの?」 と聞いている間に腕にバンドを巻きつけられた。どうやら心拍数を計ることのできるリストバンドのようなものだ。巻きつけている間無言だった優が口を開く。 「いいか、僕が持ってきたこのゲームはルール上とてもフェアだ。だから、僕がゲーム名を読み上げたら即スタートだ。勿論有紗も知っているゲームだ。いいか?」 どうやら優は緊張しているようで、こっちまで緊張してくる。 「分かった、いいわよ。」 と、私が言い終えると同時に優が口を開いた。 「僕が持ってきた勝負は、」 部屋に一瞬沈黙が走る。 「愛してるゲームだ。」 沈黙を破って飛び出てきた言葉が、先ほどまでの緊張からは想像もできない間抜けさで呆気に取られていると、 「愛してるよ、有紗。」 と、甘い言葉が降ってきた。緊張から安堵した状態だったのもあって、言葉が染み渡るように感じる。顔を上げると、優の真剣な顔が目の前にあり、なんだかドキドキしてきたと思ったら、腕に巻きつけたリストバンドがさえずる。  ピピピピピピピピピピピピピピピピピピピ いや、リストバンドが鳴っているのは一台じゃない。目の前の優が巻きつけている方からも同じ音が鳴っている。どうやら一定の心拍数を超えたら音が鳴る仕組みだったらしい。 「な、なんで優の方まで鳴ってんのよ。」 何故か逆ギレ気味で聞いてしまうと優がゆっくり口を開いた。 「だ、だって、照れて顔を真っ赤にしてる有紗がか、可愛くて…」 と、赤面している彼氏を意識して初めて、自分の火照った顔に気づいた。  目の前には美味しそうに寿司を食べる有紗がいる。この平和を享受していると、さっきまでの恥ずかしい空間が嘘だったかのように思える。  バイト先での光との会話を思い出す。 「で、なんだよそのいい考えって。」 僕が聞くとニッコニコの光が喋り出す。 「優くん最近有紗になんかしら些細な愛情表現した?好き〜って言ってあげたり」 確かに思い返せばそのような言葉を最後に言ったのはいつだったか思い出せない。 「それでね、有紗ってあの感じで意外と照れ屋だし、不意打ちに弱いから私が提案する勝負は…」  という経緯で、他にいい案も思い浮かばなかった僕は愛してるよゲームをすることにした。  結果的に有紗の可愛い一面が見ることができて、引っ越しも無しになった。有紗も負けた割には気分を損ねてないし、寿司は上手いし、平和ってのはこういうことを言うんだなと思ったりなんかした。  かかってきた電話をとる。 『もしもし?光、あんた、ほんとにさすがというか、頭が上がらないわ』  電話越しの私の友人、有紗は声からご機嫌なのが感じ取れた。  ことの発端は一週間前、私とサシ飲みした有紗が優くんの愛情表現の少なさの愚痴をこぼしたことだ。どうやら優くんが想像してる以上に有紗はちゃんと優くんのことが好きなようだが、優くんは卑屈だし、有紗はあんま愛情表現上手い方じゃないことですれ違いが生まれているようだった。そこで、一週間以内に優くんから愛情表現を引き出したら次の飲み奢りという賭けの元、私なりに考えた結果が引越しだ。  有紗の家を気に入っている優くんからしたら、彼女の引っ越しは一大事。その過程でポロッと本音が漏れたらいい程度に考えていたが、あの二人からしたら良い大誤算だろう。  電話越しにはまだ友人の黄色い声が聞こえてくる。そろそろ惚気にお腹がいっぱいになってきたので話を切り上げる。  友人たちからの幸福のお裾分けに私も気分が良くなった。 「お家も二人の気持ちも契約更新ね」 一人しかいない部屋での独り言ほど虚しいものはあまりないが、私の心は晴れやかだった。
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