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スタートの日。
どうやって切りだそう。
考えてみるけれど、どうにもうまい台本ができあがらない。
大体、台本なら相手の返事まで私が決められるけれど、相手のいる現実では返事を私が決定するのは難しい。
好きな人が相手では、どうにも。
しかも可愛い年下の恋人相手では。
*
この4月で会社を退職した。
できたらずっと正社員でいたくなるような会社だったけど、事情があって。
他にやってみたいことができたってこともある。
パン屋さんで働いてみたくなったのだ。
もともと料理が好きで、一人暮らしでますます好きになった。
ちゃんと自炊していた、その原動力はもちろんあった。
『好きな人に食べてもらいたいなあ』
そんな小さな願いがあって。
その願いはまずは叶えることができたから幸せなんだけれど。
もっともっと、と願うのは贅沢なのかな。
パン屋で働き出して、朝は早いけれど帰宅は夕方になった。明るいうちだ。
パンの匂いを体中に纏い、毎日の食事の買い出しをする。
スーパーで明るい音楽を聴きながら、今日は何をつくろうかとか何を食べてもらいたいかとか、そんなことを考える。
魚が好きな人だから魚料理が多くなった。
私の好きな人はそろそろ水の中へ帰っていくのではないかというくらい魚が好きなのだ。
だから私はおいしいパンを作って彼女をこの世界に引き留めたい。
それくらい好きだ。
彼女のことが。
その人は私が4月まで働いていた会社の元先輩で。
今は恋人、と言いたいけれどおこがましくて言えない。
だって私のほうが好きの比率が大きくて。二人合わせて100の『好き』だとしたら95くらいは私の『好き』だと思うくらい。
これはほとんど片思いなのではないかな。
だから、恋人、なんて言えない。
本当は私が元の会社を辞めるときに、この気持ちは捨てるつもりだったし。
でも何のきまぐれか、私の気持ちに先輩が応えてくれた。
私は女で、先輩も女で。先輩の元恋人は異性で。
どこにも私が選んでもらえる要素はなかったのに。
その手を伸ばしてくれたときの気持ちは言葉で言い表せない。
ほんとうにほんとうに嬉しかった。
だから私は先輩のことを好きな気持ちをずっと大事にしたいと思う。
「ねえ、芽衣。今度は芽衣の家に行くよ」
どうしたというのだろうか。
電話中に先輩が突然私に言った。
いつも私が先輩の家にお邪魔しては家事をして帰るという、いわゆるおうちデートが基本なのに。
だからなおさらどうしたのか、何かあったのかって思ってしまった。
「あー……いいですよ、先輩はお仕事疲れてるんだから。私が先輩の家に行きます」
「芽衣だって疲れてるじゃない?」
「先輩のごはんを作れると思ったらまったく疲れないんで。不思議なことに」
「……ほんとに不思議なこと言うのねえ」
本当にそう思っているのだけれど、先輩はへんなことを聞いてしまったような声をだす。
首を傾げていると、耳元で先輩の大きなため息が聞こえた。
「まあいいわ、今度の木曜と金曜は私が芽衣のうちに行くから」
「え」
「行くからね」
先輩にしては珍しく強い口調で私に念押しをした。
そしておやすみ、の言葉を残してさっと電話を切ってしまった。
木曜と金曜?
今日は月曜日。あと3日?
頭がパニックになる。
なぜなら先輩がうちに来てくれるのが初めてだから。
私は何度も何度も先輩のうちに行っているし、ごはんを作ってお風呂に入ってなんなら泊まってきたりもするけれど。
どうしよう。
どこを片付けたらいい?
先輩の家は私の家よりも広いし綺麗だ。自炊は週5日と言っているけれどキッチンも綺麗に保たれている。
おそらく私が先輩の家に押しかけても怒らないのは、基本的にいつも綺麗にできるからだ。(もちろん私も汚さないように細心の注意を払っているけれど)
とりあえず、床に落ちている料理雑誌をラックに片付ける。
壁に掛けたスプリングコートもそろそろ必要なくなるから、今度クリーニングに持って行くように袋にいれてしまう。
ラグについた髪とか小さなゴミとか全部こそげ取るようにコロコロをかける。
そうだ、四角い隅を丸く掃くんじゃだめだ。
先輩だよ?
好きな人がうちにくるんだよ?
どこを見られても綺麗にしておきたい。
あ、トイレとお風呂場も。小さいけれど一応別になっている。
先輩の家の水回りは大きいから……。
がっかりさせちゃったらいやだな。
そんなことを考えて掃除をする。
でも、だからといって先輩の家にはそんなことを求めていない。
汚れていたって物が落ちていたって。好きな気持ちは変わらない。自信はある。
なんならゴミだって先輩の落とした物ならもらって帰りたい。そういうコレクションをしたいけれど綺麗すぎて機会がない。というよりそれを言ったら絶対に口をきいてくれなくなると思うから、絶対に内緒。
ひととおり綺麗にして、でも今日はまだ月曜日だとはっと気がつく。
明日も掃除しよう。
私は声に出して決意した。
*
同じ会社に勤めていたときは毎日会えたから、もっと会いたいとか切迫した感情はうまれなかった。
それよりつらかったのは先輩が恋人と付き合って別れたときだった。
先輩も元恋人の安達さんも、あっけらかんとしていたけれど私には大事件だった。
だって。
先輩が誰かの──安達さんの──ものだったから。
安達さんという人の恋人だったから
だから私は安心して先輩のそばにいられた。
『この人は私の進む道とは違う道を歩く人』
そう思ってある意味諦めと安心と不思議な感情がまぜこぜになっていたから、私の精神は安定していたのだ。
安達さんは一緒に案件に取り組んだこともある、いい人だ。
先輩の隣に立っていてなにもおかしくない。
だから、安心していた。のに。
「別れちゃったんだよね」
そんな言葉を何でもないことのように聞いてしまったら私は、平常心でいられなくなってしまった。
先輩を、もしかしたら私の進む道に誘導できてしまうかもしれない、なんていう図々しい気持ちがむくむくと浮かんできてしまった。
──図々しい。
そう。
どす黒くてひどく醜い。
そんな感情。
その感情に自分が流されていくのが怖かった。
だから安達さんに、別れたらだめですって言いにいったりもした。
「なんでそんなこと言うの?」
もっともな疑問を投げかけられて大泣きをして、そこで私の先輩への気持ちもバレてしまったんだけれど。
そこからは安達さんがなんとなくフォローしてくれて。
少しすれ違いもあったけど、エイプリルフールの嘘にしてしまうつもりで私の結婚とか、退職の話とかいろいろ作り話をして、最終的に私は先輩に告白ができた。
その気持ちはエイプリルフールの嘘ではなかった。
安達さんのおかげもあった。
感謝してる。
ただ。
退職してからも先輩のことをいろいろと相談してるから、まさか安達さんと先輩のよりが戻るとは思わないけど。
もう二度とよりが戻らないという保証はどこにもなくて。
不安材料ではある。
「芽衣、今日は仕事のあと7時に行くからね」
木曜の昼。
いつもなら私から連絡する内容を先輩からメールでもらう。
それだけでどきどきする。
何を作ろうか、デザートは。パンも焼きたかったけれど、今日はパン屋の出勤日だったからそこまでは準備できなかった。
明日の金曜は休みを取れたから、明日の朝はパンにしよう。
というか、先輩もきっと明日の金曜を休みにしてくれたんだと思う。
私の仕事が土日休みではないから、わざわざ合わせてくれたんだ。
それを思うとまたどきどきする。
でも、どうしてそんなふうにうちに来たいのかわからない。
先輩の休みに合わせて夜にお邪魔したり、泊まったり、私はそれでも十分に幸せなんだけど。
先輩の好きなカプレーゼを用意して、弱いお酒も買ってきた。
とりあえずそれを食べてもらっている間にエビのフリッターを作ろうと思う。できたてを食べてもらいたい。
昨日から煮込んでいたラタトゥイユの味を確認する。
あとはスズキをバターソテーして。
「ピンポーン」
そんなことを考えていたらチャイムが鳴った。
心臓の音が大きくなった。
「せんぱい! 早かったですね! お疲れ様でした!」
「お疲れ様は芽衣もでしょ。何度も言うけど」
少しだけむっとした顔で先輩は頬を膨らませた。
その様子がどうにも可愛らしい。
年上なのにどうしてこの人はこんなに可愛らしいのだろう。
嬉しくて頬が緩む。
「先輩に会えると思ったら嬉しくて疲れません」
「まあいいけど」
ふいっと目をそらして先輩はハイヒールを脱いで玄関に入った。
「せまくてごめんなさい」
「ほんと、せまい」
「せんぱーい……」
シュンとした私を横目で見てクスリと笑う。そしてリビングの方向へそのまま進んでいった。
「初めて来たのにわかるってせますぎ」
「でもでも、居心地はいいですよ? 全ての物に手が届くっていうか」
「だーめ、それはだめ。片付かなくなるわよ」
……なんだろう、今日の先輩は少しきつい。
「こんな狭い部屋にお迎えしてしまってごめんなさい」
泣きたい気持ちになってうつむく。
「ああ、ごめん。なんだかむしゃくしゃして」
「むしゃくしゃ?」
「洋平のやつがうるさくて」
「安達さん?」
元カレの?
「あいつうるさいの」
「……そう、ですか。こないだメールでは何もおかしいところはなかったですけど」
「洋平と?」
「ああ、いろいろと聞きたいことがあって」
「どんな?」
「まあ、主にせんp……違います、会社のことです、会社の」
先輩の眉がどんどん中央に寄っていく。目が険しい。
じとっとした目で何か言いたげにしている。
「安達さん、親切で」
「そうね、知ってる」
知ってる。
そうですね、と心の中で呟いた。そうですね、知っていますよね。
元カレ元カノの関係ですものね。
胸の中で黒い何かがぐるぐる回り始める。
「あの。今日はどうかされたんですか?」
「え」
「あの、うちに来たいなんて言うから。何かあったかなって」
「あのさ」
「はい?」
「洋平のこと、もしかして好きなの? 私は、ここに来たらだめなの?」
「はい??」
先輩が突然言い出したからおかしな顔をしてしまったと思う。
おかしな声もでたし。トーンがかなり高くなった。
「洋平に何をそんなに聞くことがあるの?」
先輩の声は底なしに低い。いつもの可愛い声とは180度違う声。
「だから、もしかして洋平のことを好きなのかなって」
そっぽを向いてぼそぼそと話す。
私は開いた口が塞がらない。
「そ、それは先輩のほうかな、って」
「え?」
「先輩こそ、安達さんとよりが戻るんじゃないかって。私は思ってて。安達さんは一緒の会社にまだいるし、私が隣にいるより不自然じゃないし。もしかして子、こどもだって欲しくなったら作れるかもしれないし」
「芽衣、あなたねえ」
「だってそうでしょ? 私なんか一緒にいてもどうにもならない」
心の中でいつも思っていたこと。
先輩が優しくて私の気持ちにこたえてくれて、キスをしてそれ以上をしてくれて。でもどこか何か不安があって。
「芽衣がそう思うなら仕方ないのかな、私たち」
ふう、と息をはいて先輩が口を開いた。
そんな。
そうかもしれない。でもそんな。
「やめよっか、こんなこと」
そんな。
自分で言い出しておいて、でも先輩の声でそれを聞くと苦しい。
くるしい。
また。
涙がぼたぼたあふれてきてしまう。
こぼれるのは後悔。後悔そのもの。
くるしい。
先輩が目の前にいるのに、遠い。とおいよう。
「……安達さんのほうが、先輩をきっと幸せにしてくれると思うし」
「ああ、そうかもね」
投げやりな声で、先輩は腕を組んだ。
くるしい。
「じゃあ私がそうすれば、芽衣は幸せなの?」
「そんな、わ、け」
ぶんぶんぶんと首を横に振る。
そんなわけない。
そんなわけ。
できたら私は先輩と一緒にいたい。それが私の幸せ。
でも私の幸せと先輩の幸せが一緒とは限らなくって。
「ねえ、芽衣? あなたが幸せだというなら私は安達のとこにいくよ? だって」
そこで先輩は言葉をとめた。
あんまり泣いている私にハンカチを差し出して。
「だって、芽衣が幸せだということを、私もしてあげたいと思うのよ? だって。だって好きって言ったでしょ?」
「すき」
「そう。好きよ。私も芽衣が。こんなに私のこと思ってくれて可愛くて全部私を優先してくれようとするところ、我慢してるところ、全部可愛いと思ってる。だから、私の好きなあなたが幸せと感じることをしてあげたいの。言って? どうしたい?」
「先輩が、安達さんと一緒に」
「ん」
私の言葉を全て受け入れようとしてくれている、先輩の瞳。
さっき怒ったようなきつい態度だったことが、嘘みたいに優しい瞳。
「先輩が安達さんと一緒になるのは、いや、です」
「……ん」
「私と」
「……ん?」
「一緒になってください」
やっと絞り出したその言葉に、先輩は間髪を入れずに応えてくれた
「はい」
*
「スズキをバターソテーしてきます。エビのフリッターと」
「ラタトゥイユもある? いい匂い」
「あとはお酒もあります」
「ありがと。でも待って」
キッチンに行こうとしていた私は動きを止めた。
「?」
「安達とは何にも無いから。むしろ芽衣のほうこそ」
「私?」
「安達と連絡取り過ぎ。聞きたいことは私に直接聞いて」
「え」
むくれたように明後日の方向をむいて、先輩は、わかった?、と呟いた。
え、それってもしかして。
「しっと」
「だって、私が芽衣の恋人でしょ?」
「こいびと。──しっと?」
「──そうよ、何? なにか問題?」
私はもう一度首を横に振った。
何も。
何も問題なんてなくて。
ううん、初めから、何も。問題なんて、なかったんだ。
*
ごはんを食べてお風呂に入って。
「ねえ、お布団はもちろんこれだけでしょ?」
言われてハッとした。お布団を忘れていた。
「あの、私、床で寝るので」
「せまいな」
「ごめんなさい」
先輩が当然のようにベッドに座っている。
床にラグがひいてあるから別に大丈夫。寝落ちすることだってよくあるし。床で寝られます、私。
「だめ。おいで」
先輩が手を伸ばしてくれる。
この手をとるのは、告白したときも、だった。
そのまま手をぐいっとひかれてベッドに倒れ込む。横向きで向かい合う。
「せま」
「シングルなので」
「心臓やばいな」
「ごめんなさい」
「ちがう、私の」
いたずらな目で私を見てくる先輩が、ぎゅうっと腕に力を込めた。私をぎゅうっと抱きしめてくれる腕。
「……どきどきしてますね。しんくろ」
「そだね、同じか」
ふふっと笑って、一呼吸。
先輩が軽い口調で言い出した。何でもないことのように。
「じゃあさ、うちにこない?」
「え? いつ?」
「ずっと」
「え?」
「ここより広いし。おいでよ」
「え?」
「一緒にいようよ。それで、おいしいもの、たくさん一緒につくろ?」
*
言えた。
好きな相手に。芽衣に。
台本がどうしても作れなかった会話。
でも。おいでって、言えた。
もしかして安達のこといいなって思ってるのかなって疑ったけど。
おいでって、言えた。
それで芽衣が小さく頷いたから、私はものすごく嬉しかった。
*
先輩の家に引っ越す日。
いらないものをあらかた片付けたら本当に少ない荷物になった。
小さなベッドも冷蔵庫も捨てた。私は持って行きたかったけれど、先輩がいらないとはっきり言ったから。
だからこれから、毎日一緒。
パン屋さんだし休日違うし。
すれ違うことは多いと思うけど。
でも毎日一緒。
先輩の家に引っ越す日がくるなんて。
同僚だったころには思ってもみなかった。
「先輩」
「なに?」
「好きです」
「ん? 私も」
二人で買い出しに出かけて帰ってきたとき。
玄関を入ったところで言いたくなった。
好きです。
この言葉で私、スタートを切れる。
私、心ごと、先輩のところに引っ越してきたんだ。
今日が、スタートの日なんだ。
「毎朝、パンつくってよ」
楽しげな先輩の声に、
「はい、もちろん」
私は大きく頷いた。
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