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5月。近所に、小さなお店を見つけた。喫茶ブルーローズ。ビルの谷間の、小さな2階建ての家の1階。古びているけれど、モダンレトロな感じが素敵。扉を押すと、取り付けられた鐘がカラン、と鳴って、
「あらあ、いらっしゃいませ」
優しい声が私を出迎えた。
その喫茶店は、出迎えてくれたウェイトレスのおばさまと、おばさまが「マスター」と呼ぶ、カウンター奥でコーヒーを淹れるおじさま、2人だけで営まれていた。微かに流れる音楽が心地よく、私は店の奥まった席に着き、焼き菓子とコーヒーのセットを注文した。
ほどなくしておばさまが素朴な焼き菓子とコーヒーの乗ったトレイを運んできて、私の前にことりと置いた。ごゆっくり、そう告げて、おばさまは静かに、足早に、離れていった。その後姿は、背筋がすっと伸びて美しい。
ふわりと漂うコーヒーの香り、一口飲むとほろ苦さが口に広がる。お菓子は程よい甘さで、コーヒーと絶妙にマッチしていた。美味しい、と呟くと、ずっとこちらを気にしていたのか、おばさまがぱっとこちらを見た。
「そう? 嬉しいわ! それね、私が焼いたのよ。コーヒーはマスターこだわりのブレンド」
深い皺のある顔なのに、その笑顔は少女のように見えた。
***
それから、
「お邪魔じゃないかしら? おしゃべりが嫌だったら、遠慮なくそう言ってちょうだいね」そう断りを入れてから、おばさまはいろいろな話をしてくれた。
「このお店を始めたのは、3年前なの。うちの人が、あ、違った、マスターがね、65で定年退職して、その後2年は延長雇用で働いていたんだけどね、やっぱり、もうこの歳になったら好きなことをして過ごしたいって。だから思い切って会社を辞めて、自宅を改装してね、そうしてこのお店を開いたの。ね?」
そう話を振られたマスターはフラスコを拭きながら、カウンターの奥で、おう、と小さく応えた。
「子どもたちも独立して遠くに暮すようになっていたし、お客様とおしゃべりしたりするのはとてもいい刺激になっているわ。あなたみたいに、美味しいって言ってくださる方もいるし、とても幸せな仕事だと思うのよ」
「ねえ、見て。コーヒーカップ、それぞれ違うのよ。私たち、骨董が好きで、10年前から、お気に入りを集めてたの。その時はもう2人暮らしになっていたから、こんなにたくさんどうするんだって思っていたけどね、今こうしてちゃんと役に立っているわ。やっぱりね、人生に無駄なことは無いと思うのよ」
「ブルーローズ、青い薔薇ってね、自然界には存在しないのよね。そんな幻の薔薇だけれど、私たちはそれを心の中でイメージすることができる。何だか素敵じゃない? だからこの名前にしたのよね」
都会に出てめっきり減ったおしゃべりが、会話が心地よい。相槌を打ちながらコーヒーを飲み、焼き菓子を食べる。幸福感が内側からふつふつと沸き上がった。
それから、毎週のようにお店に通って、他愛のない会話とコーヒーと焼き菓子を楽しんだ。
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