第11話 歓楽街の花

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第11話 歓楽街の花

 歓楽街は、大都会にはつきものだ。人の集まるところには、必ず酒場というものがある。  高級店なら上等な酒と上品な女性、場合によっては踊り子や歌い手も揃えている。  かつての首都で、今も大きな船着き場を持つ交通の要所として人の行き来の多いメンフィスでは、そうした店は、通りひとつ分を埋めるほど並んでいた。  その通りは、船着き場と大通りのちょうど中間にある。愛と音楽の女神ハトホルの小さなお(やしろ)が建てられている四つ辻が目印で、その奥に、通り沿いに店が立ち並ぶ。  船着き場に近いほうは大衆向け居酒屋で、よそからやって来た船員がちょっと立ち寄ったりもする店だ。反対側、貴族の邸宅が立ち並ぶ高級住宅街に近づくほど、高級な店になっていく。  そして、大衆向けの店にしろ、高級店にしろ、細い路地を一本入れば、それぞれの店に対応する、性的な店も――まあ、ある。  食欲も、性欲も、人間の基本的な欲求なのだ。全ての欲求が満たせてこそ、大都市というものだろう。  最も、今回のチェティたちの行き先は、そうした色っぽい店ではない。あくまで表通りに面した、役人が行きそうな店のほう。それも、飲み食いが目的ではなく、税関所長インイの動向をそれとなく調べるためなのだ。  次兄のペンタウェレに連れられて歓楽街の入口までやって来たチェティは、真っ昼間からこんなところに来ているうしろめたさと、今までの人生で、ほとんど足を踏み入れたことのない通りに立つ物珍しさから、どう振る舞っていいか分からずにいた。  「何だよ、チェティ。そんなにオドオドすんなって」 隣にいるペンタウェレのほうは慣れた顔で、年の離れた弟の戸惑いを面白がっている。さすが年上だけあって、彼の方は、こういう場所には慣れっこのようだった。  「あの…兄さん、インイが行きそうな店の当たりは、ついているんですか」 まさか、一軒ずつ聞き込みをしていくわけにもいかない。  こういうところでは、酒の一杯も注文しなければ、情報は得られない。そのくらいはチェティでも知っている。もし一軒ずつ回って酒を一杯ずつ飲んでいったら、それだけで、財布も胃袋も破滅してしまう。  「心配すんな。階級はどうあれ、州役人の給料なんて、たかがしれたものだろ? その範疇で通えて、最大限に高級な店、っつったら、候補はそれほど多くない」 言いながら、ペンタウェレは通りの奥の方へ向かって歩いていく。  「実はな、このあたりの店は、どれも裏口が付いてるんだ。店の裏の、細い路地に出られるようになってる」  「え? 何に使うんですか」 彼は、訳知り顔でニヤリと笑った。  「そりゃあ、サボって飲んでた役人が、後からやって来た上司とばったり鉢合わせしそうになった時の脱出用さ」  「……。」  「と、いうわけで、役人が飲むなら、裏口つきのこの辺りの店と決まってる。」  「えーっと、それを知ってるってことは、兄さんも…?」  「オレが意味もなくサボるように見えるか?」  「いえ、…あんまり、そうは見えません」  「そこはさ、”見えない”って言い切ってくれよな」 冗談めかして言いながら、弟の首に腕を回す。てっきりふざけているのかと思ったが、顔を寄せた彼は、通りを行き交う人々には聞こえないよう、素早くチェティの耳元に囁いた。  「税関の連中を良く見かけんのは、そこの先の、入口に壺積んである店だ。巻き上げた賄賂で飲んでるらしく、いつも羽振りが良いらしい」  「……!」 驚いてチェティが顔を上げるより早く、ペンタウェレは、ただ飲みに来ただけの兵士を装いながら、明るい顔で店に向かって歩き出した。  「よーし、じゃあ行くか!」  (そういや兄さん、たまに街に飲みに来てたっけ…。) 以前、州兵の宿舎前で、酔っ払って戻ってきたところに出くわしたことがあるのだ。治安維持部隊の部下たちと飲んでいた、と言っていたが、口ぶりからしても、たまにここへ来ていたのだろう。そして、その時に他の兵士や、役人たちの動向も見ていたのだ。  仕事上がりに飲みに来ることなどないチェティでは、知り得ない情報だった。  「あー、ちなみにチェティ、お前、どうなんだ?」 青い水連の描かれた店の入口をくぐりながら、ペンタウェレが尋ねる。  「どう、って?」  「酒、どんくらい飲めるのかと思って。クソ兄貴はさ、ほら、全然飲めないらしいじゃん」  「あー…えっと、ぼくは普通です。強くはないですけど、飲めますよ」  「じゃ、適度に、だな。」 店に入ると、すぐに奥から化粧した、色っぽい格好の若い女性が駆け寄ってくる。庶民向けの居酒屋だと、こんな美女の出迎えは無い。それなりに値の張る、中級の居酒屋ならではの接待だ。  「いらっしゃいませ~! あらっ、兵士さんとお役人さん? 珍しい取り合わせね」  「こいつは弟だよ。見ての通り若いんで、歓楽街に来たことがないらしいんだ。今日は社会勉強ってやつだ。お手柔らかにな」 と、ペンタウェレ。  「あらまあ、新人のお役人さんなの? それじゃあ、オマケしないとねぇ! 奥の席へどうぞ~」 目の周りにくっきりとした隈取りを入れた鮮やかな赤い唇の女性は、チェティに向かって意味深に片目をつぶって見せる。  (…一応、もう上級書記に上がってるんだけどな) 心の中で思いつつも、チェティは黙ったまま、神妙な顔で軽く頭を提げた。  全く勝手が分からないし、どこか気恥ずかしい。それに、聞き込みのためとはいえ、昼間っから飲み屋に来るなんて、誰かに見つかったら何と言い訳すればいいのだろう。それこそ、顔見知りが入ってきたら、裏口から逃げ出すしかないのだった。  案内された席に腰を下ろす。  尻の下にあるのは、そこそこ値の張りそうなじゅうたんだ。庶民向けの店なら、雑に染みだらけのゴザが敷いてあるか、何も無い床に直接腰を下ろすことになるのだが、流石に役人向けの店では、少しだけ設備が高級になっている。  「ビールをくれ。普通のやつでいい。それと、何かつまみを」  「はーい」 さっきの女性が、注文を請けて、にこやかに奥へ引っ込んでいく。まだ早い時間とあって、店内にいるのは非番らしい役人が数人と、羽振りの良さそうな商売人だけだ。それぞれに、女性を側に侍らせて、お酌をしてもらっている。  「気に入った女がいたらお酌してもらえるんだ。指名制でな」  「へえ…。」  「なんだよ、反応薄いな。ははーん、さてはお前、今までこういう店でお姉ちゃんとイチャイチャしたことが無いんだな? 成人男子としてあるまじきことだぞ、それは。」  「いや、あるわけないでしょ。…てか、兄さん、そういうこと言ってると、またメリトやイウネトに”下品だ”って叱られますよ」  「お役人様は上品だねえ。オレら兵士じゃ、こういうのが普通なの。お高く止まってると白けられるぞ」  「まだ飲んでないのに、酔ってます?」  「こういう店じゃ、このくらいのノリがいいんだよ。ほれ、お前ももっと陽気な顔をしろ」 ペンタウェレは、にやりと笑った。どうやら、半分は素だが、もう半分は場に合わせた振る舞いのつもりらしい。  周囲の席に人が居ないのを確認してから、彼はまた、素早く小声で囁いた。  「店の人間に、話、聞けたほうがいいだろ。さっきの女が戻ってきたら、同席を頼むぜ。それっぽく振る舞えよ、いいな」  「……分かりました」 もっとも、チェティには、”それっぽく”の意味が分かっていなかったのだが、  ほどなくして、さっきの女性が、ビールの壺と器、それに蜜で煮付けた乾燥ナツメヤシのつまみを持って戻って来る。  「おまたせしましたぁ~」  「おっ、来た来た。よう、姉ちゃん。せっかくだ、座って酌してってくれよ。うちの弟ときたら、上司の酌をするばっかりで、自分はされたことがないんだと」   「あら~、いいんですかぁ? それじゃ、失礼して」 チェティは器を持たされ、店の女性がビールを注ぐのを無言に見ていた。  実際には、女性に酌をされることくらいは、ある。家では、いつも母か妹かイウネトが、ビールを注いでくれるのだから。  だが、この店では、家でのように一気に注いだりしないらしい。不自然に前かがみになりながら、しかも上目遣いにチラチラとこちらを見ながら、ゆっくり、ねっとりと注いでいくものらしい。  (…遅いな。なんで、無理に前かがみになって…あっ、胸の谷間を見せてるのか? なる…ほど…?) ようやく意味に気付いたチェティは、あわてて視線を反らした。お酌の女性が、赤い唇を歪めてニィッと笑うのが分かった。  (うう。何でみんな、こんなのが楽しいんだ…。) ようやく注ぎ終わったビールの器を手元に引き寄せながら、チェティは、早くも帰りたい気分になっていた。  酒場の女性は、そんなチェティの様子を、世間慣れしていないウブな態度だと面白がっているらしい。  「お兄さんは、前にもこのお店に来たことがあるわよね?」  ペンタウェレのほうにも酒を注ぎながら、女性が話しだした。  「覚えててくれたのか。」  「そりゃあ、いい男だもの。うふふっ。しかも隊長さんなんでしょ? そう呼ばれてるのが聞こえたから」  「まあ、一応はそうなんだが、偉くはないぜ。最近できた部隊だし、使いっ走りが多くてな。州軍統括の連中からは下に見られてる」  「そうなの? 大変ね」  「オレは出世しそうにない。それよりは、うちの優秀な弟のほうに顔を売っといたほうがいいぜ。こいつ、偉い人に覚えられてるからさ。」  「え、え?」  「まあ~、そうなのね。じゃあ、出世したら部下の人とかたくさん連れて来てね? たくさん持て成すわよ」  「あっはは、だとよチェティ。お前も、たくさん部下を持てるようにならんとな」  「……。」 本当は、最近まで部下のいる立場だったのだが、その一人だけの部下も、最近、役人を辞めて結婚するために実家に戻ってしまった。  ビールの器を傾け、塩味のする豆をつまみながら、ペンタウェレは、ふいに話題を切り替えた。  「そういやあ、この店、税関役人のインイさんが気に入ってるって言ってたんだよな。最近も来てるのか?」 雑談に見せかけて本題に入っていく。会話の機転が効かないチェティの代わりに、いつものネフェルカプタハの役割を、こなしてくれているのだ。  「インイさんって、あの、税関所長さんよね? 昨日も来てたわよ、お友達と一緒に」  「昨日? 相変わらず羽振りがいいんだなぁ、税関の連中は。部下連れて来てたのか?」  「ううん、部下じゃなさそうだったわね。お年寄りの書記の人よ。その人も、よく来てくださるの」 ぴく、とチェティが反応した。  「お年寄り…? それって、どんな人ですか」  「うーん、人の良さそうな感じの書記の人。一人で来ることもあるわよ。髪の毛が薄くなってて、小柄で、なんだか曖昧な喋り方をする人よ。笑顔が可愛いおじいちゃん」  「もしかして…メニさん?」 彼の脳裏に、父の同僚の議会書記の顔が思い浮かんだ。  確か、一昨日インイのことを聞いた時には分からないと言い、昨日は仕事を休んでしたはずなのだ。それが、昨日のうちに、インイと飲みに行っていた?  何か、意外な感じがした。  ちょっと物忘れの激しい、抜けているだけの人の良い老書記だと思っていたのだが――その評価は、間違えていたのだろうか。  「うーん、そんな名前だったかも…お知り合い?」  「弟の大先輩なんだよ、出くわすんじゃないかって心配になっただけさ」 硬い表情で黙り込んでしまったチェティの代わりに、ペンタウェレが陽気な声で言う。  「しかし、税関所長ともなれば、流石に顔が広いな。議会書記とも懇意にしてんのか。他には誰と来てるんだ。甥っ子の軍人か?」  「うーん、そうねえ。街の人たちとも、良く来てるけど。近所の人とか…。」 ふと、女性の眼差しが意味深な輝きを帯びた。  「…ねえ、もしかして、あのお役人さんのこと、知りたいの?」  「んー? まあ、ちょっとな。オレはちょっと前まで別のとこで兵士やってて、最近になってこの街に戻ってきたばっかなんだ。幅を利かせてる役人には、それなりに覚え良くしてもらいたいだろ」  「出世欲がありそうには見えないけど。そうねえ…」 女性は、少し顔を離しながらペンタウェレを上から下まで見回して、言った。  「お兄さんは、目的のためなら手段を選ばない人ね。残酷って意味じゃなくて、誰かを救うためとか、任務のためなら、自分の命なんて惜しくなくなっちゃうような、そんな人。どんな手を使ってでも目的を果たすわ。でも、その目的の中に立身出世とか金儲けは入っていないの」  「へえー、分かったようなこと言うなあ。んじゃ、オレの目的って何なのか、当ててみてくれよ」  「それは、分からないわよ。こうして話をするの、今日が初めてでしょう? でも…通って来てくれるなら、話は別かもしれないわ」 若い女性は、赤い唇を歪めて、にっこり笑った。  「あたし、タブブっていうのよ。次に来た時も、ご指名、よろしくね」  それから、いくらか雑談をしたが、結局、聞き出せたことはほとんど無かった。  タブブは明らかに何かを知っていて、それを隠しているのだった。巧みに会話を反らし、自分の得になる方向へと話をすり替える。客の素性や動向を軽々しく漏らすことはしない。こういった居酒屋の女性ならではの技だ。  ペンタウェレが適当に声をかけて呼んだ女性ではあったが、彼女は、ただ美しいだけではない。その化粧の下に、会話の巧みさと知能を兼ね備えていたのだ。  それを確信したのは、何杯かの盃を重ねたあと、店を立ち去る時だった。  ペンタウェレが会計のために席を立っている間に、彼女は、チェティに近づいてきて、そっと囁いた。  「ねえ、あなた、本当は新人じゃないでしょう」  「え?」  「鞄の中に、上級書記のたすきが見えたわ」 そう言って、彼女は、くすっと笑った。  「その年で昇進してるんだから、お兄さんの言うとおり、確かに優秀ね。でも、酒場に慣れていないのは本当でしょ。真面目なのね」  「……。」 全て見透かされていたのだ。しかも、ペンタウェレと話しながら、彼女はチェティのほうも、それとなく観察していた。  「おまたせ! じゃ行くか、チェティ」  「あ、うん。」  「また来てね? 約束よぉ~」 わざとらしい、甘ったるい作り声で手をふって見送るタブブの目元には、何か意味深な、そして好奇心のような輝きが、宿っていた。  店を出て、歓楽街を抜けたあたりで、チェティは大きくため息をついた。  「うう…。」  「おっ、どうした? 酔っ払って気持ち悪くなったのか」  「違うよ。なんか、恥ずかしくなってきた」 ため息まじりに頭を抱える。  「あの人、ぼくが新人じゃないのも、何か探りに来たことも、気づいてましたよ。バレてるのに演技し続けてたなんて、恥ずかしいじゃないですか」  「オレは演技なんてしてないぞ? というか、普通に楽しめた。うん、あのお姉ちゃんは当たりだったな。接客が上手い」  「いや、そうじゃなくて…」  「分かってる分かってる。確かに、あんま聞き出せなかったのは事実だ。もっと口の軽い女なら良かったんだが」  「そういえば、あの店って、誰か指名して同席してもらうのが普通なんですか」  「まあ、必ずってわけじゃないが、そのほうが酒の席が華やぐだろ」  「――だとしたら、インイさんが懇意にしてる女性も、誰かいたのかもしれない」 チェティはようやく、そのことに思い当たった。店の中にいた時は色々と必死過ぎて、考えが及んでいなかったのだ。  「確かメニさんは、インイさんは太った子が好みだとか言ってたんです。メニさんもあの店の常連だったとしたら、もしかして、店でそういう人を同席させているのを見てたのかも」  「ほう…そりゃ、面白い視点だな。そういや確かに、あの店、ぽっちゃり系の女の子もいた気がする」  「昨日メニさんらしき人と一緒に飲んでた、っていうのも気になります。役所に戻って、今日はメニさんが居るかどうか確かめてきます」  「今からか? おい、チェティ。あんま先走るなよ。危ないことは――」  「――しませんよ! それに、役所の中じゃ、何も起きるはずないです」 言いながら、チェティは早くも駆け出している。  「って、あーあ…まあ、いいか。議会書記に話を聞きに行くだけなら。」 ペンタウェレは苦笑しながら、人混みの中に消えていく弟を見送った。あえていうならば、酒を飲んだばかりで全力疾走するのは危ない、というくらい。  だがそれも、自己責任だ。もう子供ではないのだから、転んだくらいで泣きはしないだろう。  (それにしても、さっきの居酒屋の姉ちゃんだ。ただ、客の素性に口が硬いだけだったのか? それとも…) 行きつけにしているわけでもないペンタウェレのことを覚えていたくらいなのだ。記憶力は良いに違いない。インイとメニのことを知っていたのも、気になっていた。  酒場での接待の場に居合わせれば、直接同席していたのではないにしろ、周囲の話し声は聞こえてくる。何も知らないはずはない。  彼女には、別の機会にもう一度、話を聞きにいったほうがいいかもしれなかった。
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