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第2話 最初の疑惑
チェティとネフェルカプタハが、大神殿に持ち込まれる訴訟に首をつっこむようになったのは、三年半ほど前のこと。この街で起きた、傭兵と役人絡みの事件が切っ掛けだった。
大神殿に持ち込まれる訴訟にしろ、役所に持ち込まれる訴訟にしろ、必ずしも「正義」に則った裁きが行われるわけではない。
まず、訴訟に持ち込むためには、誰か書記に頼んで訴状を上げてもらう必要がある。そして、困り事の内容や、自分がどうして欲しいのかを、正確に伝える必要がある。
その時点で、一般庶民にはなかなか出来ないことなのだ。
書記のつてが無ければ訴状すら作れない。ただ「困っている」だけでは取り上げても貰えない。しかも、法廷のあるメンフィスの街から遠い農村部の住民は、街に出てくるだけでも一苦労だ。
そして、もちろん、雇うのに値が張る優秀な書記のほうが、訴状を作るのも、答弁をするのも得意だ。地位や財産を持つ者ほど、最初から有利になりやすい。もしも一介の町民と貴族が対立すれば、勝利するのは、ほぼ間違いなく貴族だろう。
チェティが最初に見たのも、まさにそういう事態だった。
何の後ろ盾もない異国出身の傭兵が、弁護人もなく、状況証拠だけで犯人に仕立て上げられようとしていた。それを、見逃すことが出来なかったのだ。
名もなき人々の手助けがしたい。力なき者が虐げられるのを黙って見ていたくない。
――それが、あのとき決めた、自分の生き方だった。
ただ、彼自身が役人ということもあって、役所に持ち込まれる事件のほうには、直接的な関与は避けていた。
そもそも担当が違う。農作物で収められる税収の管理が担当のチェティが、議会で扱われる訴訟関連に首を突っ込むことは、職務上、許されていない。
それに、役所に持ち込まれる訴訟や事件は、殺人だの傷害だの、彼には手に負えないような荒っぽいものが多かった。
だから普段、自分から首を突っ込むのは。大神殿に持ち込まれる訴訟のほうばかり、だったのだが――。
(まさか、州が担当する事件が、巡り巡って大神殿のほうにも持ち込まれることがあるなんて)
役人の詰め所がある北街へ向かって歩きながら、チェティは、考え込んでいた。
大神殿にこの件を持ち込んだホルアンクは、一体、何を目的としているのだろう。心中にしろ、殺人事件にしろ、既に当事者たちが死亡して遺体も処理されてしまった以上、大神殿に訴え出ても、何か事態が動くわけでもない。それが分からないほど取り乱していたか、怒りにかられていたのか。
にしても、そのために、わざわざ誰か、街にいる書記を雇ったのなら、ずいぶんな労力の掛け方だ。
もし仮に、心中したことになっている相手の男、宿の番頭セネブイがサァトハトルを殺していたのだとしても、犯人は既に死亡している。裁きを下すことも、罰することも出来ない。
(もしかしたら、役所の調査が打ち切られたのも、そういうことかもしれないな。あれこれほじくり返すより、死者は静かに眠らせたほうがいい、とか。…だけど、うーん。だとしても、遺族にはせめて、納得のいく説明くらい、するべきだと思うんだけど…。)
考えながら、チェティは歩き続けていた。役所の敷地内に入り、自分の担当する部署を通り過ぎて、訴訟関連を扱う、州議会の建物のほうへ進んでいく。そちらは父の職場だし、もう何度も訪れている。
横目に、ちらと見やると、議会の建物の入り口が閉められて、州知事の護衛を務める兵が立っているのが見えた。
ということは、今日も議会が開催されていて、州知事も出席しているのだ。
このところ州議会は、ほぼ毎週のように開催されていた。
州知事が、宰相を兼任することになったせいだ。もちろん、メンフィスの属する「下の国」が範囲の、いわゆる「北の宰相」である。
この国では通常、宰相は二人任命され、国土の北と南、――川の下流と上流を、それぞれが担当することになっている。
「北の宰相」の役目は、メンフィスより下流の地域を、王に代わって統治することだ。しかし、その地域にはいま、公然と王に叛旗を翻し、自ら王を名乗り始めた州知事さえいる。
つまり、この任命は、反逆者たちを押さえて、上流の首都イチィ・タウィに近づけさせるな、という意味でもあった。
かつての首都であり、「白い城壁」という別名を持つこのメンフィスは、今や、引き裂かれた国土の中心で、危うい均衡を保つべく、難しい立場に置かれようとしているのだった
だが、それを知っていても、チェティのような一介の役人にはどうしようもない。
州知事ウクホテプの副官であり、執政官のパイベスは、チェティを「使える」奴と踏んで何かと無茶を言いつけてくるものの、さすがに、重要な政治判断にまで関わらせたりはしない。何しろチェティは、まだ役人になって三年ちょっとの若輩者なのだ。そういうことは、議会書記をしているチェティの父、セジェムのほうが得意だろう。
もっともセジェムは、のらりくらりと役目を躱して、極力、何もせずにいるというのが特技で、滅多なことでは自分から動いたりはしないはずなのだが…。
その父も、さすがに本業までは拒否したりはしない。議会が開かれているということは、議題や決定事項を書き留めるのが仕事の議会書記は、今頃、議場の中で仕事中のはずだった。
書庫を覗くと、思ったとおり、父も、他の同僚たちも、ほとんど出払っていた。留守番役らしい、いつも居る年配の書記だけが、ひとりで部屋の隅に腰を下ろしている。
「あの。会議は、いつごろ終わるんでしょうか」
「ん?――」
書類から顔を上げた老書記は、記憶を捻り出すように目をしょぼしょぼさせたあと、チェティの顔を見て、目尻にしわを寄せてにっこりとした。
「ああ、なんだ。セジェムさんとこの息子さんかい。しばらく終わりそうにないけど、何か用事があるなら代わりに聞こうかね?」
「覚えていてくれたんですね。えっと…書庫の書類を、見せてもらいたいんです」
ダメ元で聞いてみる。
訴訟の書類などは、本来は、州役任とはいえ担当外には見せてはいけないもののはずだ。だからこそ、こうして会議中も見張りの書記が残っている。
だが、年配の書記は、いともあっさりと言ってのけた。
「いいよ。何の書類だね」
「少し前に持ち込まれたはずの、訴訟の件なんです」
チェティは、驚きながらもそう言った。
まさか、同僚の息子だから構わないとでも思っているのだろうか。父以外に、決まりや規則を堂々と無視する書記がいるとは思っていなかったが、助かるのは確かだった。
「船着き場通りの宿の未亡人が水死体で見つかって、心中だろうって処理された件、ご存知ですか」
「あー…うーん、聞いたような、聞いてないような。最近の話かね?」
「そのはずです。」
「じゃあ、このへんの書類、かなぁ…。」
老書記は、おぼつかない指先で書架から巻物をいくつか取り出した。
「たぶん、この中のどれかだよ。見てみるといい」
「ありがとうございます」
父なら、一瞬でどの巻物か判別して素早く取り出してくれるのだが、いないのだから仕方がない。
チェティは、窓際の明るいところで巻物を解いて、中身を確かめていった。
(殺人事件…強盗…違うな。身元不明の死者…行方不明…へえ、事件ってけっこう起きてるんだな)
メンフィスは、かつて首都だったこともある、この国でも有数の大都市だ。住民の数が多い分、持ち込まれる事件も多いらしかった。
最近の訴訟や、事件の処理だけでも結構な件数がある。解決しているものもあれば、解決していないものも。
一本目の巻物は空振りで、二本目に取り掛かり、それも終盤まで繰ったときだった。
(あった)
聞き覚えのある名前を見つけて、彼は、巻物を繰る手を止めた。
”「三羽の雁」亭の経営者、サァトハトル、番頭セネブイ。行方不明のち水死体として発見。両者の足は縄で括られ、外傷なし。石を抱いて同時に川で溺死したものと推測。
状況から無理心中として処理。遺族に遺体引き渡し済み。”
簡素な記録のあとに、「完了」を示す印が朱で書かれている。担当書記のところには、メニという名が書き込まれている。
(この人に聞けば、経緯くらいは分かるのかな)
せめて、どんな調査をしたのかくらい分からないことには、調べに来た甲斐がない。
チェティは書類を元通り巻き戻すと、さっき書類の場所を教えてくれた老書記のほうを振り返った。
「あの。これ、ありがとうございました」
「もういいのかね。調べたいことは分かったかい?」
「はい、誰に当たればいいのかは。それで、メニという書記は、どの人でしょうか」
役所にいる書記のうち、訴訟関連の書記は議会書記が兼任している。つまり、普段この書庫に勤務している書記のうちの誰か、のはずだ。
だが、老書記は、ちょっと首を傾げて不思議そうな顔をした。
「メニは、わしだが?」
「えっ。あなたが…?」
「同じ名前の書記は居ないな」
「で、でも…」
チェティは、慌てて巻物をもう一度広げて、さっきの場所を見せた。
「この事件、完了の印を入れたのは、あなたなんですか?」
「あー…あったなあ、こんな事件。うん、いま思い出した。そうそう、確かほら、誰だっけ、えっと…。役人の、誰だったかな、ほれ。口ひげのある人が来て、この件は完了でいいからって」
「もしかして、誰かの代わりに完了の印を入れたんですか」
「うん。調査は完了したからって言われてな。この部署の担当じゃないと正式な完了の印は入れられんから…そうだ、その時も皆出払っとって、わしだけ残っとったから、じゃあ書いとくよって」
「……。」
チェティは、がっくり来て思わず額に手をやりそうになった。
この老書記は、確かに人が良いのだが、誰かを疑うということを知らないのだ。言われたから完了の印を入れた。なんとも、頼りない仕事ぶりだ。
それに、あまり規則に口うるさくない。だからこそ、チェティが勝手に書類を見ることにも何も言わないのだろうが、…おそらく、他の人たちに対しても同じ態度なのだろう。
顔見知りならば、特に警戒もしない。つまり、書庫の守り番や、留守役には向いていない。
「役人の誰から言われたか、思い出せますか?」
「うーん、えっとなあ…。」
メニ老人は腕組みをして、しばらく考え込んだ。
「ここまで名前が出かかっとるんだが、うーん…イシ…じゃないな。イネシ…イニ…イリ…うーん。なんか、そんな感じの名前の…ほれ。歓楽街で、でっぷりした子ばっかり侍らせたがる変わりもんじゃよ」
「ええと…、ぼくは歓楽街には行かないので、分からないです」
「そうか。ふーむ、困ったな」
「思い出したら教えて下さい。また、来ます」
つまり、役所で辿れる手がかりは、ここまでということだ。
思ってもいなかったところで、いきなり行き詰まってしまった。まさか、事件を完了させた書記本人が、誰から依頼されたかを覚えていない、とは。
それにしても、完了報告を代わりに書いてくれと別の部署の「誰か」が言いに来たというのは、何か妙だ。それも、他の書記たちの居ない時に。
(役所で事件を扱うときの、正式な手順ってどうなってるんだろう。今まで、気にしたことが無かったな…。)
殺人や傷害ともなれば、兵士を連れて調査に出向くはずなのだ。役人が? それとも、兵のまとめ役が? それすら分からない。
父ならば知っているかもしれない。議会が終わったら、あとで聞いてみよう。
それから、もう一つ、さっき見た資料で、気になっていることがあった。
「行方不明のち水死体として発見」。
(――つまり、水死体として見つかる前、二人は行方不明になってたんだ)
死亡したとされている女性の息子、ホルアンクは、そのことを知っていたのだろうか?
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