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第8話 死者の身元
長い話になりそうなので、三人は、それぞれの客室から備品の椅子を持ち寄って、いちばん手前の部屋の前の廊下で、顔を突き合わせて腰を下ろした。狭苦しいので、廊下の扉と、川に面した裏口の扉は開けっ放している。こうすれば、建物の中が真っすぐに繋がって、視界が広々とするのだ。
「おれが大神殿に出した訴えの件で来てくれた、って言ったよね。」
「そうだ。訴訟にはならないから、陳情扱いだけどなと。あんたは、この件は心中じゃない、って信じてるんだよな?」
「信じてる、というか…あり得ないんだよ。そんなことはさ」
「順を追って聞かせて下さい。」
と、チェティ。
「お母さん、サァトハトルさんと最後に会ったのは、いつなんですか?」
「えーと、十日だから…一週間くらい前かな。いつも、仕事でこっちに渡った時は、ついでに実家に寄ってたんだよ。だからそんなに疎遠だったわけじゃない。」
「その時は、異変の兆候は見られなかったんですね」
「そうさ。なのに、そのあと何日かして顔を出したら、母さんが居なくなってて…母さんが死んだって兵士が報せが来たのは、その、次の日だった」
そこまで言ってから、ホルアンクは、声を震わせた。
「何も無かったんだ。最後に会った時だって何も変わらず、いつも通りで。番頭のセネブイも居たし…」
「二人が恋仲だっていう気配も、何かに困ってる気配も、無かったってことですか?」
「無いよ、全然! まず、恋仲とかあり得ないね。セネブイってハゲだし、しょぼくれた見た目だし、メシの食べ方は汚いし、母さんが惚れる要素が全然ない。」
「もし結婚したいとか言われたら、反対してました?」
「そりゃあ、ちょっとは考えるさ。母さんは信用してたみたいだけど、見ての通り、なんだか妙な連中に部屋を貸したりして、おれはあんまり好きじゃなかったからね。――けど、父さんが死んでもう七年も経つんだよ。母さんが誰かと再婚したくなっても、別に構わないって思ってたよ。よっぽどおかしな人じゃなきゃ、反対なんてしない。」
口調からして、それは、本当に正直な気持ちのようだった。
再婚すること自体には、反対する理由はない。ただ、相手は選んで欲しい、というような。
すでに独立して、別々に暮らしている息子が、未亡人になってしまった一人暮らしの母を気遣うような、そんな意見に思えた。
「ふうん…。じゃあ、ほんとに心中する理由がないですね」
「そうだよ。だから、おれは、殺人事件だって言ったんだ」
若者の言葉は熱を帯びている。
「あり得ないんだ。一緒に川に飛び込んだなんて、嘘に決まってる。殺されたんだよ、それ以外に考えられない」
「なあ、今更なんだけど…」
それまで何かを考えていたネフェルカプタハが、彼の熱い言葉を中断させた。
「あんた、死体は確かめたのか? っていうか、遺体の引き取りをしたんなら、見てるんだよな」
「一応ね。ひどい腐敗具合で、ほとんど何も分からなかったけど」
「発見した農夫の話じゃあ、顔が魚に食われてたとかなんとか、肉付きがいい女だったことしか分からなかったらしいんだが、そんなもんか?」
「ああ、そうだよ。だけど、髪型と服は母さんだった。男のほうは辛うじてセネブイだって分かったし、同時に行方不明になってるんなら、きっと間違いないんだと思って」
「――ん、あれ?」
ふと、チェティも違和感に気がついた。
「ってことは、顔は、確かめてないんですね」
「見ても分からなかった…それに、ちゃんと見せてもらってはいないんだ。匂いが、その…きつくて、近づけないほどだったし」
「……。」
頭の中で、時系列を思い起こしてみる。
今までに聞いた話。そう、隣の宿の老婆の証言と、ホルアンクが最後に会ったという日付。
遺体の腐敗状況――。
「えーっと…整理させて下さい。最後にサァトハトルさんに会ったのは十日くらい前。その時にはセネブイさんはまだ宿にいて、何も変わった様子は無かった。間違いないですか」
「そうだ」
「そのあと、セネブイさんが姿を消して何日かしてから、サァトハトホルさんは出かけることをお隣の人に告げた。『何日かして』だから、セネブイさんが居なくなったのが九日前だとして、サァトハトルさんが出かけたのは、七日前より前とは考えにくい」
「えっ? セネブイが居なくなってた? 何だい、その話」
「知らなかったのか。お隣さんは、そう言ってたんたよ」
ネフェルカプタハが捕捉して、あとを続ける。
「で、二人の死体が見つかって、役所が心中として処理したことがあんたに知らされたのが、三日前ってわけだ。遺体発見はその前の、五日前か四日前…、出かけた日に死んだとしても、遺体の発見時点で死後二日か三日しか経ってねぇな。」
「うん。腐敗の進行度合いが合わない。この季節は川の温度も高く無いし、その日数じゃ顔がわからないほど腐ることは無いはずだね」
「え、え…? 話が、よくわからないんですが…」
「つまり、あんたの見た女の死体は、おふくろさんじゃねぇ可能性がある、っつぅことだよ」
ネフェルカプタハは、苦い顔をして言った。
「腐ってた女は別の誰かで、ご丁寧にも、あんたのおふくろさんと同じ服を着て、わざわざ同じ髪型にしてた。身代わりってことだろう」
「それって、――まさか」
ホルアンクの顔が、青ざめていく。
「まさか、母さんが犯人だとでも言うんですか?!」
「んな単純な話じゃねぇよ、落ち着けって。あんたのおふくろさんは、一人で大の男と女、二人も殺せるほど剛腕なのか?」
「そんなわけ、ないでしょう」
「なら、犯人じゃねぇよ。殺した方法や場所はともかく、少なくとも、死体を川べりまで運ばなきゃならねぇんだ。女一人じゃ無理だな」
「……。」
やはり、この事件は心中ではなさそうだった。それどころか、死んでいた二人のうち一人は、身元の認識さえ間違っていそうな予感がある。
だが、サァトハトルが何かの形で関与しているのは間違い無い。それに、彼女がいまだ、戻ってきていないのは事実なのだ。
ホルアンクは、がくりと肩を落として頭を抱えた。
「…母さんに一体、何があったっていうんだ」
「ぼくらも、それが知りたいんです」
と、チェティ。
「サァトホトルさんが、誰かと揉めていたとか、困っていたとかいうような話は、聞いたことがありますか?」
「無いよ。全然無い。店の経営で揉めるとすれば、セネブイだけなんだ。あっ、そうか…もしかして、セネブイが何かやらかしたのか?! あいつ、税関の連中と何かつるんでたから。そうだ、税関役人が怪しい!」
「いや、怪しいっつっても、具体的にどういう揉め事があって、役人の誰が疑わしいとかが無いと、こっちだって調べようが無いぜ」
「でも…。」
ホルアンクは取り乱し、理論的な判断は出来なくなっているようだった。
母親が死んだと聞かされ、かと思えば実は死んでいないかもしれないと言われ、さらに実家は侵入されて荒らされている。こんな状況で、冷静に考えられるほうが珍しい。
チェティとネフェルカプタハは目を見交わし、今日はここで退散することに決めた。
「すいません、ぼくたちも、出来る限り手がかりを調べてはみます。何か分かったら、また連絡しますね」
「なんとか、あんたのおふくろさんに何があったのか、突き止められるといいんだけどな」
沈み込んでいるホルアンクにかけてやれる言葉は、あまり多くはなかった。
そして、彼から聞き出せることも、今は、これ以上は無さそうだった。
頭を抱えたままの若者を中に残し、二人は、宿の外に出た。
「なんだか、妙な話になってきたね」
「ああ。まさか、心中と思われてた二人のうち、女の方の身元が間違えてたとはな」
「だとしたら、本物の被害者は一体、誰なんだろう。サァトハトルさんと間違われるように、わざと同じ服を着せて、髪型も合わせたんだよね。…体格も? いや、待てよ。もしかして、最初から身代わりにするために、前もって殺して沈めておいた?」
「考えたくねぇが、女のほうが腐敗がひどかったんなら、その可能性はあるな。顔が腐ってりゃあ、誰なのか、すぐには見分けがつかなくなる」
「でも、男のほうは顔が分かる状態で死んでいた。二人とも腐敗していたら、身元が特定出来なくなるから…。うん、なんとなく分かってきたよ。この事件は、死んだのが『セネブイとサァトハトル』だと誰かが思わせようとしたために、不自然になってしまった事件なんだね。」
「まぁ、関係のある二人がほぼ同時期に失踪してて、片方がそのうちの一人なら、死体がその二人かもしれねぇ、と思うくらいは在り得るが…何で、わざわざ心中なんてことに、したんだろうな。」
もしも最初からサァトハトルの身代わりにするためだけに誰かを殺したのなら、これは計画された殺人だ。だが早々に不自然さが露呈して、息子に疑問を抱かれているようでは、緻密な計画とは言い難い。
どうにも、不自然さが拭えない。
女性のほうは、おそらく、サァトハトルが家を留守にする以前から死んでいた――身代わりにするために殺されたのでないのだとすれば、一体、他にどんな死因が考えられるだろう。それに、セネブイの死との関係は?
「もちろん、サァトハトルさんが殺したなんてことはないと思うけど、無関係ってわけでは無さそうだよね」
「セネブイのほうの状況も、疑問だらけだ。姿をくらましたのが九日前だとして、死体の顔はまだはっきり分かったってんなら、死んだのは、ここ数日以内のことだろ。居なくなったあと死ぬまで、一体、何処に隠れていたんだ?」
「今までの話を総合すると、サァトハトルさんが慌てて家を出たっていうのは、死体発見の前日か、前々日あたりのはずなんだ。もしかしたらサァトハトルさんは、セネブイの居場所に気づいて、会いに行ったのかもしれないな」
「うーん…分からんことが多すぎるな。だとしたら、セネブイは何でまた、姿を隠したりしてたんだ?」
ネフェルカプタハは、腕組みをして唸った。
「ホルアンクは税関役人が怪しいとか言ってたけど、役人なら、事件を揉み消すだけだろう? わざわざ二人も殺す意味が分からんし、死体を偽装するってのも手間がかかりすぎてる。それに、死体をサァトハトルに見せかけたってことは、本物のほうはまだ生きてて、どっかに隠れてるっぅことになるよな」
「……。」
既に、チェティも、ネフェルカプタハも、これが心中に見せかけた殺人なのだと確信するに至っていた。
足を縄で繋がれた男女の死亡時期が異なるのだ。他に、考えられる可能性はほとんど無い。
ただ、犯人も、動機も、何一つ分からない。
「まず怪しいのは、この件を心中として処理した役人だと思う。不審な死体の処理には慣れているはずだし、男女の腐敗状況が違っていたのは、すぐに気づくはずだ。なのに事件性がないと早々に判断したのは、どう考えたっておかしい。州軍統括の中に何か知っている人がいて、深入りされたくないために調査を強制的に打ち切ったのかもしれない」
「つまり、役人が怪しいっつぅホルアンクの説は部分的に正しいかもしれない、ってことか」
「うん。どう関与したかは分からないけど、無関係じゃない気はしてる。それと、もう一つはセネブイが契約していたっていう、奥の部屋を借りていた人たちだ。一年の三分の二もの期間を毎年借りていた、しかも中からしか開けられない扉をつけさせていた。今回の宿への侵入も、裏口から入った可能性が高い。だとすると、あの宿の特殊な構造を、よく知っていた者の犯行だと思う」
「むむ…確かに。裏口から中に入れることを知ってただけじゃなく、何処に何があるかも分かってたはずなんだしな。帳簿を盗んだのは、自分らの名前とかが書かれてたかもしれないから、ってことで理由はつく」
「問題は、帳簿以外にも何かを探してたらしい痕跡だね。二階も荒らされてたから」
「あーそうか…確かにな」
「何を探していたにしろ、それが見つかったのか、見つかっていないのかで話は変わりそうだね」
死んだ番頭のセネブイが、税関役人の口利きで連れてきたという謎の固定客。一年の三分の二にも渡る期間、毎年のように、宿の奥に陣取って何かしていた連中。
考えてみれば、不自然なのだった。宿の改装までさせて、他の客にも、宿の女主人にすらも、誰が何をしているか見ることが出来ないようにしていた。それは、逆に言えば、何か後ろめたいことをしていたからではないのか。
可能性は幾つも考えられる。ただ、今は、全てが憶測のまま、点と点を繋ぐ流れは見えてこない。
長い沈黙のあと、ネフェルカプタハは、ため息をついた。
「思ったより厄介な話になっちまったなぁ…。これ、事情を説明して、今からでも州兵のほうに再捜査してもらうっつーのは、無理なのか? 殺人犯が誰なのか分かったとして、俺らじゃ捕まえられねぇぞ」
「うーん…。そうだよね…。」
チェティも同意見だった。
少し前、行方不明になった少女を探す時、うっかり一人で調査に先走りすぎたせいで危険な人物と出くわしてしまい、ヘタしたら死ぬような目に遭わされたばかりなのだ。自分に、身を守る力がないことくらい分かっている。あまり危険なことは、したくない。
「空き巣の件も含めて、役所に戻ったら、州兵の人たちに話してみる。とりあえず、もう一度、お隣さんに聞いてみよう。サァトハトルさんが居なくなったのが正確に何時なのかは、確かめたい」
「じゃ、行くか」
既に、「三羽の雁」亭の前に集まっていた野次馬はいなくなり、通りは元通り閑散としている。
二人は、隣の大ナマズの描かれた宿に向かい、番台にいる老婆に声をかけた。
「すいません。もう一つだけ、確認したいことがあるんですが」
「うん? なんだい」
「サァトハトルさんが居なくなった日のことです。戸締まりをして出かけるといっていたのは、居なくなる何日前のことですか」
「うーん…ええっと」
老婆は、指を折って日数を思い出そうとしている。
「…五日か、六日前だねえ」
「やっぱり」
チェティたちは、顔を見合わせて頷ききあった。推測通りだ。つまり、サァトハトルの姿が最後に隣人に見られたのは、死体が発見される前日か前々日のことになる。
「ホルアンクは、どうしてるんだい」
「宿で途方に暮れてます。二階が荒らされてて、帳簿が無くなっていたそうなんです」
「あらまぁ…。そりゃ、落ち込むねえ。あとで、元気づけにいってやらなきゃ」
「お願いします。」
大ナマズの宿を出て、二人は、大神殿のほうに向かって歩き出した。
「なぁ、チェティ。今回の空き巣、偶然じゃねぇよな」
歩きながら、ネフェルカプタハが言う。
「そう思う。いくら、市で人が集まってたにしても、あまりに事件が重なりすぎてる。それに、二階のあの荒らし方は、手当たり次第に金目のものを探してたっていうよりは、何か、目当てのものを探してたような感じがした」
「ホルアンクがしばらく戻って来ないことを知っててやったんなら、近所の人間の犯行、って可能性もあるぜ。あの隣のばぁさんは論外にしても、近所に詰め所のある税関役人、やっぱ、怪しくねぇか?」
「…もちろん、それは考えた。だけど、ただ『怪しい』だけじゃあ、何も出来ない」
税関役人には関わらないほうがいい、と、仲間たちは言っていた。同じ役人同士でさえ嫌われ、敬遠されているくらいなのだ。いきなり詰め所を訪ねて話を聞かせてくれと言っても、好意的に話をしてくれることなど、ありそうもない。
大神殿の裏口との分かれ道まで来たところで、チェティは、足を止めた。
「カプタハ、ぼくは役所に戻って、もう一度、調べられることは調べてみようと思う。死体を心中事件として処理させた役人の正体を、ペンタウェレ兄さんに調べてもらってるところでもあるし。君は、それとなく宿場通りの動向を見張っておいてほしい」
「分かった。俺も、あの宿の周辺で他に噂が無いか、適当に聞き込んどくわ。あー、あと税関職員の件も、ちょいと気になるから、ついでに神殿の連中に聞いてみる。俺が知ってんのは、神殿に納入される品から税金を取ろうとしたっつぅ話だけだしさ」
「ありがとう、何か分かるといいね。それじゃ、また明日、いつもの場所で」
「おう。朝のお勤めが終わったら、行くわ」
大神殿の船着き場に通じる裏口の前で別れて、二人はそれぞれに、心当たりの調査のために散っていった。
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