第1話 河畔のできごと

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第1話 河畔のできごと

 季節は成長季(ペレト)、農作物の成長する時期の半ばへと移り変わっていた。  沙漠の国の中心を流れる、人々の生命線たる大河ナイル(イテルウ)の水位は、既にかなり低くなっている。普段は暑いこの国でも、この季節だけは朝夕が肌寒く、東に顔を出そうとしている太陽の光は弱い。  メンフィス近郊の農村では、この頃、短い農閑期の中にあった。  あと何ヶ月かすれば、農作物の収穫が始まる。それまでは”待ち”の状態にあり、副業にせいを出す農民も多い。たとえば、暖かくなって北の国々から渡って来ている渡り鳥が帰ってしまう前にと、鳥捕りに出かける、などだ。  夜明けの川べりに小舟を出していた二人の男たちは、まさに、その手の類いだった。  郊外の小さな農村に居を構える農民たちは、収穫期に入って忙しくなる前に、少しでも余分を稼いでおきたいのだ。渡り鳥を狩れば、今夜の食卓が豪勢になるだけでなく、街で開かれる(いち)に持って行って、何かと交換することも出来る。特に羽毛は需要が高い。食べ物と交換しても良いし、何かの時のための晴れ着でも、家財道具でもいい。ただし鷹だけは、間違って狩るようなことがあってはいけない。それは、王の象徴たる神聖な鳥だからだ。  「うう、今年はやけに寒いな」  「仕方がねぇさ、この時分は、毎年、いちばん寒い時期だから。もう少しすりゃあ、お天道様が高くなってマシになる」 二人は小声でぼやきあいながら、鳥を捕まえるための網を手に小舟を降り、川べりの、葦の茂みへと向かっていた。  鳥たちが眠っているところに上から網をかけて一気に仕留めるのが、この辺りの兼業猟師たちのよくやるやり方だ。それならば、特に技術は必要ない。鳥捕り用の弓矢を準備する手間もかからない。  朝のまだ日が昇りきっていない時間帯なら、鳥たちは寝ぼけて逃げるのが遅れることが多い。こんな原始的な方法でも、それなりの成果は上がるのだった。  そろそろと網を広げながら、鳥の眠っていそうな茂みの上に広げようとしていた時――  片方の男が、何かにつまずいて体勢を崩した。  「ひゃっ!」 声を上げながら、派手に水の中に尻もちをついた。はずみで手から網が落ち、びっくりして目を覚ました鳥たちが、ギャアギャア騒がしい声を立てながら葦の茂みの中から慌てふためいて飛び立ってゆく。  もうひとりの男のほうは、慌てて相方のほうに駆け寄った。  「おい、どうした。ワニでもいたのか」  「ち、違。死、死んで…」  「うん? ――うわあっ」 後から駆け寄ったほうの男も、声をあげて後ろに飛び退いた。  水辺に、葦の茂みの中に、濁った目を半開きにした真っ白な死体が一体、引っかかっていたのだ。  いつから水に浸かっていたかは分からない。ふやけ具合からして、少なくとも、数日前などでは無さそうだった。  それが、ただの溺死体でないことは、すぐに分かった。  足に、縄が結び付けられていたからだ。  縄の先には――別の人間の足がある。つまり、二人の人間が、足を縄で結んだ状態で、ともに死んでいるのだ。  異常な死。ただでさえヒンヤリとした朝の空気が余計な冷たくなったような感じて、体に悪寒が走った。  「と、と、とにかく役所だ。役人に知らせないと」  「んだ。は、はやく」 もはや、狩りどころではなかった。  動転した男たちは、狩猟用の網を回収することも忘れて乗ってきた小舟に飛び乗ると、まだ夜も明けきらない街のほうに向かって、大急ぎで舟を漕ぎ始めたのだった。 * * * * * * * * *   肌寒い朝の街。  チェティは、いつものように大通りの端にあるトト神の小神殿の裏手で、幼馴染のネフェルカプタハを待っていた。  朱鷺(とき)の姿をとるトト神は書記の守護神だ。  彼自身、今の職業は書記――州役人だったし、ネフェルカプタハと出会ったのは書記学校でのことだったから、何かと縁のある神様だ。お参りに行く、と言い訳をつけて抜け出してくるにも都合が良く、大通りから少し外れたこの場所は、書記学校で机を並べていた子供の頃からの定番の待ち合わせ場所だった。  学校を卒業し、お互い別々の道を歩むようになってからも、二人は、ことあるごとに相談事をしたり、一緒に出かけたりしていた。  神官であるネフェルカプタハの職場、メンフィス大神殿で開かれる、神前法廷に持ち込まれる訴訟に首を突っ込むのも、そのうちの一つだ。  今日も、ネフェルカプタハから「変わった訴訟がある」という連絡を貰って、話を聞きにやって来たのだった。  だが、姿を見せたカプタハは、いつもと違い、やけに元気がなかった。  「うーす…」  「え、何? その格好」 チェティは驚いて、まじまじと相棒の姿を見つめた。  いつもの、神官の正装ではない。  清潔を保つために剃られているはずの頭には、人毛で作られた書記用のかつらを被り、上半身には長袖の上着を二枚も重ね着して、おまけに、腰布の上からもう一枚、厚手の布を巻いている。  「いや、だってさぁ、あの服めっちゃ寒いんだよ。毛皮や毛織物は汚れているからっつって、神官はご法度だろ? 他にどうすりゃいいんだよ。無理無理! うう…」 言いながら、彼は両手で肩を抱いて、しきりと擦っている。  チェティは、思わず苦笑した。  「だったら、無理して外で待ち合わせしなくても、どこか建物の中にすれば良かったのに。火のあるところにしようか? うち、来る?」  「いや、いいよ。お前の母さんの嫌いそうな話だからさ。今回は、自殺か他殺かっつぅ、あんま気持ちの良くない訴訟なんだよな。」  「え、そうなんだ。伝言には、心中事件の訴訟だって書かれてたけど…」 待ち合わせの場所に来る前に、概要の書かれた伝言は受け取っていたが、詳細までは知らないのだ。  「そ。男女ひとりずつの死体が、街の近くの川辺に上がったんだ。外傷は無し。お互いの体を縄でくくりつけて、石を抱くか何かして、一緒に舟から川に飛び込んだんじゃねぇかっつう話さ」  「ってことは、死因ははっきりしていない?」  「目撃情報ナシ、飛び込んだ舟も見つかってない。この寒い時の夜に出歩く奴なんざいねぇし、まぁ、夜中に飛び込んだんなら誰も見てねぇのは不思議でもないな。それに、死体の状態からして、飛び込んだのは死体発見より何日も前の可能性があるんだそうだ。」  「つまり、ええと…ふやけて、魚に食われてた、とか?」  「まさにそれだな。」  「うん、台所でする話じゃないね。確かに」  「だろ?」 ネフェルカプタハは、体を温めようと足踏みしながら空を見上げている。そろそろ、太陽の光が通りに届きそうなのだ。この季節でも、太陽が街を照らせば気温は上がる。あと少し角度が変われば、少しは温かくなるだろう。  「で、何でまた、訴訟になんてなったんだ。心中事件じゃない可能性があるってこと?」  「まあ、そういうこった。順を追って説明する。時間はあるか?」  「うん。今の時期は暇だしね」 チェティの仕事は州役人で、本来の担当は税収の管理なのだ。収穫期になれば税の徴収で毎日大変な忙しさになるが、それまでの間は、固定の仕事というものが無い。――もっとも最近では、執政官に言いつけられて何かと担当外の仕事までさせられているのだが、  「んじゃ、説明する。心中した二人ってのは、ぜんぜん若くない、未亡人と年配男なんだ。女のほうは、船着き場の脇の宿場通りにある宿の一つ、『三羽の雁』亭の切り盛りをやってたサァトハトルっつぅ未亡人で、子供は息子が一人。もう成人して独立してる。で、男の方は、サァトハトルが旦那を亡くしたあとに雇った宿の番頭で、セネブイって男だ。まぁ、二人の年は近いんだが、恋仲ってもんでもねぇし、あえて心中する理由も無いんだと。で、息子は、心中なら男の方がやらかした無理心中かもしれんっつって、ちゃんとした調査をして欲しいって訴えてる」  「つまり、被疑者死亡の殺人事件かもしれない、ってこと?」 言いながら、チェティは首を傾げる。  「君がこの話を知ってるってことは、訴えた先は大神殿なんだよね。殺人なら、役所の管轄じゃないか。どうして、役所じゃなく大神殿に駆け込んだりしたんだろう」 そう、心中にしろ、殺人事件にしろ、人が死んだのなら真っ先に届け出が出るのは役所のはずで、呼ばれるのは州軍の兵士なのだ。それなのに、なぜ、わざわざ大神殿のほうに訴え出る必要があったのか。  「いやあ、それがさ。役所の方じゃ、状況だけ見て、これは心中だっつって断定して、それ以上の調査はしなかったらしい。そのへんの事情は詳しくは分からん。とにかく、その、未亡人の息子のホルアンクって訴訟人からすれば、母親が番頭と心中なんてあり得ないって話らしい。で、州兵が動かないから、大神殿で何とかしてくれって、泣きついてきたんだな。つまり正確には、『訴訟』というより『陳情』だ。」  「うーん…。なるほど…。」 他の街がどうかチェティたちは知らないが、このメンフィスなら、困りごとを訴え出る先は二つある。  一つは、州政府。つまり役所だ。  そして、もう一つが、古来から法廷が置かれ、正義(マアト)の執行に権威を持つメンフィス大神殿。街の住民たちは用途に応じて両者を使い分けている。  とはいえ、それなりに棲み分けは成されている。通常、殺人や犯罪など世俗的な訴えごとは役所の担当だ。  大神殿には、世俗的な犯罪を捜査するような機関は無い。州政府と大神殿の微妙な権威の駆け引きを知っている、したたかな街の住民は、州側が相手にしてくれないならと神殿側に訴え、そのことによって州側に揺さぶりをかけるくらいのことは当たり前にやってのけるが、それでも、出来ないことは出来ない。神殿は、世俗的な犯罪にはあまり関与しないのだ。  「死体が見つかった場所は、神殿所領でも、神殿の敷地内でもないんだよね?」  「ああ。北の、下流のほうの農村だな。」  「それじゃあ、どう足掻いても大神殿の管轄外だよね…。見つかった死体も、もう処理されちゃったんだろ?」  「埋葬済みだな。」  「だとすると、証拠も何も、調べようがない。たとえ怪しかったとしても、対処不能なんじゃないかな。兄上は何て言ってた?」  「ジェフティさんも、同じことを言ってたよ。訴え出た息子は、母親と同居して無いんだ。しばらく実家に戻って無かったらしいし、母親が何か問題を抱えてたとしても気づかないかもしれない。まあ、ジェフティさん曰く、『惚れたはれたは理性じゃない、理屈で解決しようと出来ないもの』らしいから、心中のはずがないって息子の言い分が、そもそも間違いって可能性は残ってる」  「なるほどね。役所の調査が早々に打ち切られたのは、心中だと信ずるに値する、何か有力な証言が出てきたからかもしれない、ってことか」  「そそ。俺としてもさ、何代もうちの神殿の信徒やってる街の住民の不幸だし、何とかしてやりてぇ気持ちはあるんだが、州の調査で事件が終わった扱いなのに、今さらどうにも出来ねぇよ」  「だよね」 チェティの長兄ジェフティは、大神殿の筆頭書記をしている。大神殿に持ち込まれる訴訟の資料には、すべて目を通しているし、必要があれば法廷に立つこともする。チェティなどよりずっと、この手の事件の処理には詳しいはずなのだ。その兄が、見込みが薄いと思っているのなら、正攻法では無理なのだろう。  「ただ、気になることがある、とは言ってたな。」  「気になること?」  「ああ。まず役所が”事件性無し”と判断した理由だ。肉親の息子が、母親は心中なんぞするはずがないと言い張っている以上、不審なところはあるだろ?」  「それは、そうだね。二人の間に恋愛感情があったとしても、そもそも心中しなきゃならないような理由があったのかどうか」  「あと、役所側が調査を打ち切ったた経緯だな。死体が見つかったのは五日くらい前らしいんだが、息子のホルアンク曰く、当人に聞き取りすらなく、次の日には心中として処理されて、継続捜査無しだと告げられたらしい」  「…早すぎるね。もしかして、遺族のホルアンクにも、何も納得のいく説明が無かったのかな?」  「だと思うぞ。明らかに妙な死に方をしてるのに、お互いの足が繋がってたことと、外傷がないっつぅだけで死因の断定は出来ないだろ? いくら役所の調査担当が優秀だったにしても、ちぃと早計に過ぎる気がするな。疑わしいのは事実だ」  「うん。ぼくも、そう思う」  「この件は、ジェフティさんに頼んで、いったん保留にしてもらってる。訴訟としての対処は無理でも、陳情扱いにして受付ければ何とかなるかもしれない。あと、大神殿が正式に動けなくても、俺らが勝手に動く分には目をつぶってくれるってさ。どうする?」  「うん。やれるだけ、やってみようか」  「よし。決まりだな」 ネフェルカプタハは、にいっと笑った。  今までも、こうして、相棒が大神殿から持ち出してくる情報で事件に首を突っ込んできた。決まり通りの処理では対処出来ない困り事を抱えている人がいるのなら、決まりから外れた手助けをしにいくお節介者の出番だ。  「で、どこから行く」  「そうだな…まずは、役所のほうでどういう捜査があって、何を根拠に心中と断定したのか、調べてみるよ」 役所に勤めているチェティなら、他の部署の書庫に入ることも出来るし、必要なら議会書記をしている父に頼んで、大元の事件の調査書を閲覧することだって可能だ。  「何か分かったら連絡するよ」  「おう。頼んだ」 話をしている間に、日はずいぶん高くなっている。空気が温められて、ネフェルカプタハも、最初の頃より少しばかり元気を取り戻したように見える。  「…それにしてもさ、カプタハ。君、闇を統べる冥界神様に仕える神官なのに、太陽が昇ってる時のほうが元気って、どういうこと?」  「ああん? んなもん、俺は生きてんだからしょうがねぇじゃん。主上が闇におわすお方だからっつって、こっちまで合わせられるわけねーっつの。んじゃ俺、神殿に戻るわ」  「…うん。またね」 寒そうに背を丸めながら小走りに大通りの方へ消えてゆく相棒を見送りながら、チェティは、笑いを噛み殺していた。  全くそうは見えないが、あれでメンフィスの守護神であるプタハの高位神官で、将来は大神殿を切り盛りする立場にある。  仕事中はさすがに神官らしく振る舞っているものの、チェティと会うときの彼は、いつも、子供時代のいたずら小僧のままなのだった。
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