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 今から数時間前。  ハイネは軍の大会議室で新兵器のプレゼンテーションを行っていた。  クリスタライズ。 これはディスタンシアを内部から破壊する目的でハイネが開発したものだ。  なにせこの国は物資がない。クラリスに対抗する手段など、もはや残されていなかった。  銃火器類はあっても弾はない。航空機もそれを動かす航空燃料がない。  なんにせよ、国内で兵器と呼べるものはただの鉄の塊となってなんの役にも立たなかった。  残された兵力は人間だ。人間だけなら余剰はある。むしろ、人間しかもう手がない。 「我々はただでは倒れない。この爆薬は、自決用の爆弾ではなく、戦略兵器の側面を持っています。兵士の体内に埋め込み、指定の位置まで行かせる。つまり、高い知能を搭載した自走式の爆弾として使用できます」  聴衆は全員、食い入るように、クリスタライズの紹介画面を観ている。  ハイネはスクリーンの要点を指示棒で示しながら、熱弁を振るう。今のハイネはディスタンシアをこよなく愛する、狂信的とも言える愛国者だ。  スクリーンには開発中のクリスタライズが映っていた。  名刺をふたつに折りたたんだくらいの大きさで厚みが数ミリ、心臓ペースメーカーを思わせるようなサイズ。中に仕込んでいる基盤自体は薄いが、起爆信号を受け取る受信機と爆薬を搭載している。  どっちにしろ確実に使用者が死ぬためには、埋込時の負担を軽くするため、いかに機器を薄く、そして軽量化するかが問題だ。  埋め込めばその場所が盛り上がるから、服の上から触れてもわかる。つまり、あまり体の深部には埋めず、鎖骨の下など皮膚に余裕があり、体の可動域を邪魔しない場所に入れることを想定した。  妙なところに埋めて、拒否反応が出て亡くなってしまっては、本来の効果が期待できない。  むしろ、本来の効果でハイネの敵の数が勝手に減ればいい。そうすればディスタンシアは、人も資源(リソース)も両方失う。そこが肝だ。  ハイネにとっては、ディスタンシアを破滅へ導く演説だ。聴衆全員が悪魔の話術に心と思考を掴まれ、コントロールされている。全員がこのとんでもない兵器に目を輝かせ、会場の温度(ボルテージ)は徐々に上がっていく。頭の悪い国のバカどもを煽るのは簡単だ。  ハイネはさらに、声のトーンを上げた。 「本国から起動信号をだせば、爆弾を仕掛けに行くよりも、より精密に攻撃が可能でしょう。また、兵士自身での起動も可能なので、捕縛されそうになったときの自決用として、敵もろとも吹き飛ばせます。捕縛されて敵に殺されるより、命を散らす瞬間まで、ディスタンシア兵として尊厳を保てます! これは兵士の最後のプライドとも言えるでしょう!」  会場のそこかしこで大きな拍手が響いた。  さあ、演説の仕上げだ。 「みなさん、これを見てください」  ハイネは白衣のポケットから、白いシルクの布で包まれたものを取り出した。  手のひらに収まるくらいの大きさのそれに、聴衆の耳目が集中する。  ハイネは、ドレスを脱がすようにゆっくりとシルクの布をはずしていく。  そこに包まれていたものの正体は、どこにでもありそうなデザインのカクテルグラスだ。 「これはクリスタルで作られたグラスです。純度が高いので透明度が普通のグラスと比べ物になりません。どうです? とても美しいでしょう?」  ハイネは右手でグラスをもち、高々と掲げた。照明の光を受け、クリスタルグラスがきらりと強く光る。 「ですが、クリスタルには弱点があります」  グラスを講演台に置き、ハイネは白衣のポケットからスープスプーンを取り出すと、グラスの側面を軽く叩くと、会場の静寂を引き裂くようなキィンという高い音が響いた。 「ご覧ください。これがクリスタルの弱点です!」  グラスの側面には、叩いた場所を中心にして、蜘蛛の巣のようなヒビが入っていた。聴衆らがそれをみて「割れたぞ!」とざわつきだす。 「皆さん、いいですか!」  ハイネのよく通る声が、会場のざわめきを一瞬で静寂に帰した。 「純度が高く、美しいクリスタルほどとても脆い。このグラスのように。たしかに兵士一人一人は脆いかも知れません。しかし、各々が抱くプライドは、このクリスタルグラスなど霞んでしまうほど眩しく輝き、とても美しく強い。そうではありませんか!?」  会場のどこからか「そうだ!そのとおりだ!」と声が上がる。 「純粋な愛国心に満ちた、透明なクリスタルのような美しい命を国に捧げよ。それがクリスタライズの意義なのです!」  声高々に新兵器のプレゼンを終えた時、聴衆はみんなオールスタンディングでこの兵器を認めた。  割れんばかりの拍手と歓声に会場が揺れ、「我々のプライドだ!」と誰もが拳を突き上げ、歓喜の声をあげている、中には肩を組んでディスタンシアの国家を歌うものまで現れた。  手立てのないディスタンシアにとって、ハイネが提案したクリスタライズは、悪化の一途をたどるクラリスとの戦闘状況を反転させるための画期的な作戦だ。  どう見たって破滅にしか向かわない兵器なのだと、冷静に考えればわかりそうなものなのに。  ハイネにとっては予想以上の好印象で受け入れられたクリスタライズ。手応えありすぎの軍部の反応に、馬鹿な奴らだとハイネは笑顔の裏でほくそ笑んだ。 ……  ハイネの正体は、クラリスから派遣された諜報工作員だ。 長く戦争が続くディスタンシアを完膚なきまで叩き潰すことを目的として潜入した。  同じように工作員だった妻エリカとは、ディスタンシアで出会った。  互いの持つ血塗られた同じ匂いがしたのか、ふたりは惹かれ合い結婚した。  ハイネと妻のエリカはともに同じーーディスタンシアを滅亡させるーーという目的を持っている。  それは互いにディスタンシアに色々奪われ、壊されてしまったことによる。ディスタンシアにこのまま黙って従っているわけにはいかない。  二人で手を取り合い、この腐りきった国を地図から消す。そんな思いの矢先、大きな誤算が発生した。  エリカが妊娠したのだ。  身軽でいたい工作員に足手纏いは必要ない。  しかし、子どもは生まれてしまった。  クラリスとリーベットの血が流れることを示す異色虹彩(オッドアイ)の瞳を持って。  そしてもっと誤算だったのは、ハイネとエリカに「親の自覚」が生まれてしまったことだ。  一人息子のミズキがかわいくて仕方がない。  目がくりくり大きくて、いろんなことに興味を示し、絵本や図鑑を持ってきては読んでとせがんだり、自分で絵本を声に出して読んだりしている。  とはいえ、おとなしいわけでもなく小さな蛇を掴んではポイっと投げたりするやんちゃなところもある。  自分では降りられないくせに、庭の木に登っては、丸い小さな芋虫よろしくもそもそ高いところを目指して無茶をするので、エリカが「危ない!」と悲鳴をあげて、「降りてらっしゃい」といたずら芋虫を回収していたりする。  抱っこしてやるとニコッと笑ってまるで天使のようだ。背中に小さな羽でもついているのではないかと錯覚してしまう。  もうミズキの振る舞い全てがかわいいし愛しい。顔はハイネに似てる気もするが、女の子を思わせるような優しい笑顔はエリカ譲りだ。  まだ幼いのに、ミズキときたら両親の手を煩わせることがなく聡明だ……とハイネは多少親バカも自覚している。  それに子供はディスタンシアでは国の宝と位置付けている。国に忠誠を誓う未来の兵士を育てているという一種のアピールにもなる。  だが、人の噂は何が原因でどこから立つかわからない。  そして、ディスタンシアという国では、こういう人の噂を過剰に評価し、調査する。  痛くもない腹を探られるどころか、腹を裂かれた上、何もないところに原因をつくられて、罪をでっち上げられるなんてことも珍しくない。  クリスタライズは、戦争を早く終わらせるトリガーになる。戦火で沈んだ暗い夜が終わり、平和な朝がやってくる。  ディスタンシア兵は喜んでクリスタライズを抱いて勝手に死んでゆくし、クラリスは何もしなくても目的が達成できる。  クリスタライズは、さながらディスタンシアというカマキリに寄生して破滅に向かわせるハリガネムシだ。 クリスタライズの開発という、国家の偉業を成したハイネの家族に危険は及ばないはずだった。 ※※※※※ 「所長、お客様です」 プレゼンを終え、一息ついていたハイネのもとに、女性職員がやってきた。             誰かと聞くも、彼女は答えない。 「会議室でお客様がお待ちになられてます」 名前を名乗らない連中はだいたい限られている。 一抹の不安を覚え、ハイネが指定された会議室に行くと、そこにはディスタンシアの秘密警察に当たる軍保衛部がいた。 「いやぁ、お忙しいところすみませんなぁ、ブランケンハイム所長」  屈強な、そして頭の悪そうな、だが獰猛さにかけては誰にも負けないような軍服の男たちがハイネを迎えた。 人の予定や都合などかけらほども考慮しなさそうなタイプの人種に思える男たちは、半ば強引にハイネは椅子に押し付けるように座らせる。 ただならぬ雰囲気に、ハイネが驚いて男たちを見ると、正面に座る男から質問が飛んできた。 「ブランケンハイム所長、君はクラリスのスパイなのかね?」  音もなく地を這うヘビのように静寂を震わせる低い声がハイネを捉える。あまりにも質問が直球すぎて、つい「はい」と返事しそうになるのを堪え、ハイネは「そんなことあるわけないでしょう」と笑った。  ハイネと机を挟んで、いちばん屈強な男が座っている。服の上からでもわかる太い腕は、子供の首くらいなら簡単にねじ切ってしまいそうで、なんともいえぬ威圧感をまとっていた。 彼は肘を机につき、顎のあたりで指をくんでいた。軍帽を目深に被り、ブリムの影から覗く鋭いレーザーのような視線で、ハイネの心の中をくまなくスキャンしているようだ。  保衛部の方でなんの情報を掴んでいるのかわからない今、下手なことは喋れない。聞かれたことだけに素直に答えておくのがいちばんの得策だ。 「私はクリスタライズの開発リーダーですよ。私自身も、そして家族もこの由緒正しき荘厳で高貴なディスタンシア国家に身体も命も捧げています」 「しかし、あなたはクラリス人だ」 「私がクラリス人であることは間違いありません。それはもう隠しようも否定もできません」  ディスタンシアは軍部が好き放題している独裁国家だ。こんな国家が喜ぶべきセリフを、ハイネは頭の中で素早くまとめる。 「私はクラリスという国が嫌になって、自由で素晴らしいこの国へ亡命したのです。ディスタンシアは私のような者を快く受け入れてくださった。だから私もお国にご恩をお返しするべく、粉骨砕身の覚悟で努力しています。私がお国より受けたご恩はあまりにも大きな愛で慈悲深い。私の命は、お国のためにあるのです」  国や独裁者を称賛するセリフは、多少オーバーな方がいい。  そしてこれを淡々と述べてはいけない。感情を昂らせて「ああこの国にいて幸せだ」と、全身でアピールしなければならない。演技力が重要なのだ。  独裁国家の締め付けが厳しいのは、そこを牛耳る者が臆病だからだ。誰も信用できず、あらゆるものに怯えている。下手すれば楽しく遊んでいる子供の笑顔でさえも、そこに危険因子が隠れていないか探り出す。  連中は一度疑うと、冷静な判断ができなくなる。だから自分に牙を剥かぬように抑圧してくるのだ。  愚か者などそんなものだ。抑圧された不満が核となって理不尽の鏡にぶつかり、急速に大きくなっていくことすら理解できない。  だから馬鹿なふりをして「ディスタンシア万歳」と唱えていれば問題ない。  だが、この日の保衛部員は、ハイネの想像を超えてきた。 「ブランケンハイム所長、あなたの命はお国のためにあるのですか?」 「もちろん」 「家族の命も?」 「ええもちろん。当たり前です」 「ほほう……当たり前、ですか。……結構」  保衛部員はブリムの影から覗く、ギラリと光る刃のような視線をさらに細めた。 「では、あなたの家族で、その兵器の威力をご披露していただくことは可能かな?」 「え?」  聞かれたことが理解できず、ハイネは思わず聞き返す。 「家族で……?」 「ええ」  保衛部員は椅子から立ち上がると、ゆっくりとハイネの方に回ってくる。カツ、カツ、とゆっくり響く靴音が悪魔の足音のようだ。  ハイネが背後を意識していると、保衛部員はちょうど真後ろで足を止め、両肩を叩くように手を乗せてきた。  その重みと痛みに得体の知れない気味悪さを感じる。  そのまま彼はハイネの耳元に口を寄せて囁いた。 「あれですよ、あなたの作った兵器の威力」 「クリスタライズの……威力……?」 「まずはあなたがその目で確認したいだろう? そういえばあなたにはまだ年端も行かないお子さんがいらっしゃったな? 瞳の色が左右で違う、珍しい異色虹彩(オッドアイ)の子供が。あなたの子供はクラリスとリーベットの混血かな?」 「……?」  何が言いたい?  ハイネはわざとらしく肩をすくめる。ディスタンシアに忠誠を誓う馬鹿を演じろと、必死に自分に言い聞かせる。  保衛部員はハイネの前に写真を2枚投げるように置いた。その2枚ともに、ミズキが写っている。  それは木登りをしてエリカに怒られているミズキの写真。  もう一枚は自宅の近くを散歩している写真だ。 (これは……割と最近の写真か……)  ハイネはこの時のことを覚えている。  散歩していてミズキがぐずって抱っこをせがんだ。歩き疲れたのだろう。赤いほっぺをぷくと膨らませ、その場に座り込んで、ハイネに両手をのばしていた。 「パパ。ぼく、もうあるくのイヤ。だっこ」 「仕方ないなぁ。ミズキ、おいで」  腰を落として両手を広げると、ミズキはパッと笑顔になってハイネに飛びついてきた。抱き上げてやると、もちもちのほっぺをハイネの頬にすり寄せて大喜びするのだ。  どちらの写真もミズキは弾けるような笑顔でとても愛らしい。 (連中……私をどれくらい前からマークしていたんだ)  諜報工作員である以上、常に気を張っていたはずなのに、自分がマークされていることに気づけなかった。ミズキのことで気が緩んだか。これは自分の失態だとほぞを噛む。  しかしそんなことよりも、気になるのは連中の要求だ。ミズキにどうしろというのか。  保衛部員の舌先がハイネの耳朶をぺろりと舐めてくる。耳朶に生温かい息がかかり、ミミズが全身を這うような生理的な嫌悪が全身を走る。  保衛部員は耳元で熱っぽく囁いた。 「その爆弾をあなたの息子に持たせて、クラリスへ里帰りしてはいかがかな?」  「……どういうことです」  思わず据わった視線をわずかに後ろへとやり、ハイネは静かに問い質す。  ミズキに死ねと言っているのか? あの子に持たせる? 本気なのか。  これはミズキを殺すためのものではない。自分と妻に仇なすこの国家(ディスタンシア)を内部から潰すためのものだ。  だが保衛部員は本気のようだ。 「クリスタライズは戦略的兵器の側面があるのだろう? あなたはそうプレゼンした。大人は死を怯えても、あなたの息子ならそんなことはまだ理解しない」 「ですが……」 「あなたの大切な宝物がクラリスへ大打撃を与えたとなれば、後に続く兵士も出るだろう。息子は…四歳だったか? まるで女の子と見紛うほどに可憐だ。ブランケンハイム所長によく似ている。こんな愛らしい子が国家にために働くなんて素晴らしいことじゃないか。我が国の兵士を鼓舞するためにも、必要だと思うが?」 「ミズキに……クリスタライズを……? いえ、あの子には無理です」  ハイネは震える声で反論する。そうだ、子供にパスワードの音声認識なんてできるわけがない。 「あの兵器を埋めたからと言って、あの子はまだ四歳で言葉がおぼつかない。だから使いこなせないと思います。資源(リソース)の無駄だ」 「リモート起爆が出来るんだったな、あの兵器は? あの子に起動させなくても、あなたが息子を指定場所まで誘導するだけでいい。起爆はこちらで行う」  冗談だろう。どうしてミズキにやらせる? ディスタンシアで物乞いをしているそこらの戦争孤児でも適当に連れてきて実験ならまだしも。  ハイネの苛立ちをよそに、保衛部員は喉の奥でクックッと楽しげに笑った。 「そういえばあなたは純粋なクリスタルほど脆くて美しいと話しておられたな? あなたによく似て、息子は綺麗な顔立ちだ。特にこの瞳。片目がクラリスの色彩(いろ)で作ったクリスタルのようだ。クラリスの血を持つ弱気子が、クラリスを破壊に行くなんて痛快じゃないか」  何が言いたいのか。息をのむハイネを面白がるように、保衛部員は話を続けた。 「あなたの子供ができて、戦場に出る兵士にできないはずはない。それを証明していただく」  保衛部員はハイネの背後に立ったまま、顎のラインをレザーグローブの指先で撫で、楽しそうに喉の奥で笑う。 「そういう使い方なのだろう? あれ(クリスタライズ)は」 まるで氷のナイフで皮膚を切られているような錯覚を覚え、思わず身を捩った。心のクロークに隠した秘密を探るようなそれに、ハイネの心が早鐘を打つ。 「家族ともども、ディスタンシアに身体も命も捧げておられるのだろう? ブランケンハイム所長?」  ならできるはずだと、有無など言わさぬ圧力をこめた残酷な囁き。  ハイネは全身の血が一気に引くような恐怖と、逆流するような怒りを覚えていた。  この事態を打破する方法を考えなくては。一刻も早く。   ++++  保衛部員の面談を終わらせたハイネは、基地を出て帰宅の途についていた。  今日もまもなく日が変わる。エリカもミズキももう眠ってしまっただろう。  クリスタライズのプレゼン準備で忙しかったから、最近は連日こんな感じで、ハイネの体には疲労が溜まっていた。そして今日の保衛部員だ。  彼らは下手をするとディスタンシアの将校などよりも残酷な一面を持っているから、家族を思うと下手に動くことは得策ではなかった。  もしかしたら、すでに保衛部員が自分の足取りを細かく調べていることも予想される。  なにせミズキの写真を盗撮されていたくらいだ。もう自分は常にマークされていると思った方がいい。  怪しまれぬよう、視線を周囲にさりげなく巡らせながら、ハイネは町外れに向かっていた。 (一体どこでクラリスの諜報工作員だなんて噂が立ったのか)  この国に来た時から何かと世話をしてくれているシュトラウスとは、妙な噂を避けて基地内で会うことも話すこともしないし、会う時はいつも闇に紛れて深夜、シュトラウスの自宅が多かった。  そして今夜も、ハイネはシュトラウスの自宅に向かっていた。  自分のところに保衛部員がやってきたということは、シュトラウスにもなにかしらハイネの件に関して圧力がかかった恐れが高い。  彼は真面目なディスタンシアの軍人だ。いざというときに自分の味方になどなってはくれないだろうが……彼のたった一つ、最後の深い感情である場所に、ハイネの印を刻んでいる。何度も彼の部屋で彼と体を重ね、その度に彼の体の奥に徴を残し、体には痕跡(あと)をつけた。  人間、深く体の関係を持てば、トラブルが起きてもそう簡単に相手を裏切れない。それが相思相愛のようなものであるならなおさらだ。  シュトラウスには感謝している。  彼は嘘がつけない男だ。今夜は彼の反応を直に確かめておく必要がある。  町はずれになるほど、街灯は少なくなり、ついには何もついていない暗闇の道に出た。  シュトラウスの家の周囲には街灯が付いていない。限られた最低限の電力を供給するようになっているから、街頭に回す電力などこの国にはなかった。それに住宅や建物はクラリス軍の空襲を警戒して、遮光性のない黒い布で窓を覆い、電球にはカバーを被せて光が拡散しないようにしているから、外に光が漏れることもない。  黒い服を着ていれば、ライトを当てるか暗視装置(ナイトスコープ)でもない限り、闇が姿を隠してくれる。  呼び鈴を鳴らすとすぐにドアが開いた。 「ハイネ……」 「エルごめん。こんな夜更けに……」 「いいから入れ。来ると思っていた」  シュトラウスに腕を引っ張られ、靴を脱ぐのもそこそこに部屋の中に引っ張り込まれる。 「ハイネ、クリスタライズとかいう新兵器の噂を聞いた。君は本気であんなものを実戦投入しようとしているのか?」  リビングに通され、くたびれたソファーに無理やり座らされる。  何をどう話せばいいのか。ハイネが頭の中で答えをまとめていると、シュトラウスはハイネの両肩を掴んだ。  肩に感じる彼の力とその目は、ハイネになんとか新兵器の投入を止めさせようとしている意志が見える。 「ハイネ。あんなものは人間の尊厳など無視しているとんでもない兵器だ」 「知っていたのか。耳が早いな。そんなにあの兵器は噂になっているのかい?」 「まだ限られた者だけだ」  シュトラウスは忌々しそうに吐き捨てた。その態度から「彼のもうひとつの仕事」をしたのだと、ハイネは悟る。 「誰から聞いた?」 「そんなことはどうでもいい。ハイネ、兵士の命をなんだと思っている。命は一つしかないんだぞ」 「そうだな、だがもうクリスタライズくらいのものでもなければ、ディスタンシアが形勢逆転することは事実上不可能だろう?」  なるべくシュトラウスの目を見ないように、さも当たり前の講釈を口にする。   自分はクラリスの諜報工作員だ。目的はディスタンシアの国、物、人、全てを破壊、殲滅することが目的。  そのリストの中には、シュトラウスも含まれて……いる。  ハイネは彼を利用しているだけに過ぎない。  彼に対する憐憫の情などーーない……のだ。  それなのに。  どうしてシュトラウスを前にすると、自分の正しさが後ろめたくなる?  任務への迷いを打ち消すように、ハイネはわざと鷹揚に笑顔を浮かべた。 「エル、君には国への忠誠心はないのか? あるなら、僕の兵器の素晴らしさがわかるだろ?」  クリスタライズの真の目的はーー。  シュトラウスに自慢げにクリスタライズの機能を話すほどに、心が軋む痛みに耐えられなくなる。  身体をつなげたから? 違う、そんなことで自らの目的を、感情の制御を見失ったりはーーしない。  頭の中では自分の役割を理解しているのに、シュトラウスの顔を見ると、胸の奥で何かモヤモヤしたものがどんどん大きくなって、彼がぼやけて見えなくなっていく。  まるで、シュトラウスを自分の殲滅リストから排除しようとしているかのようだ。 「軍の上層部は、僕のプレゼンテーションに対し、全員がスタンディングオベーションだった。早めの実戦投入をと言われている」 「上層部の連中は現場には絶対出ない。出るのは誰だと思っている。我々だ。そんなもん、認められるか!」 「だがクラリスに勝つには……!」 「そんな悲しい顔をして。君は本当にディスタンシアの勝利を願っているのか……?」 「えっ……?」  ハイネは驚いて顔を上げた。  悲しい顔をしている? そんなはずはない。むしろ、国家に最高の作戦を提案した研究所所長の顔をしているはずだ。 「ハイネ、君だって本当はわかっているんだろう?」  シュトラウスはハイネの肩を強く揺さぶる。 「後にこの兵器は、残酷の象徴(クルーエルイコン)となる。何がスタンディングオベーションだ。君は歴史に悪魔として名を刻む気か?」  やはりだ。シュトラウスの反応はハイネの予想通りだった。  こんな兵器、シュトラウスなら絶対に止めるだろう。彼は正直な思いをぶつけてくる。そこに嘘はない。  これでわかった。彼にはまだ保衛部の手は伸びていない。ほっとする反面、ハイネは自分の置かれた立場をあらためて自覚する。  戦略兵器としてクリスタライズを開発したのは、クラリスが手を汚さなくてもディスタンシア兵が勝手に自滅するシステムにしたかったからだ。  あとは実戦投入されたあとに、クリスタライズ起爆信号のコードプログラムとともに、クラリスにその旨を伝えればいい。「ディスタンシア兵には近づくな」と。  コードプログラムがあればリモコンが作れる。クラリス兵がわざわざ敵に近づかなくても、リモコン手動で起爆してもいいだろうし。クラリスの方から兵士を無力化する起爆信号を出せばいい。  友軍がディスタンシア兵から逃げる時間を稼ぐために、起動後1分程度の時間を設けている。  敵の足でもライフルで軽く撃ち抜いて止めておけば、1分あればそこから容易に離脱できるだろう。  あとはほっておいても、時間がくれば敵は勝手に死ぬ。クリスタライズは体の中に埋め込むから、臓器類も激しく損傷するだろう。仮に即死を免れても、どのみち死ぬ。  敵を殺すための弾薬も最小限で済む。クラリスには良いことづくめだ。  なにせディスタンシア自らが、自滅するための資源(リソース)を使ってくれるのだから。  勝手に死ぬのは「敵」のみだ。  自分の家族が死んでいいはずがない。 「ハイネ」  シュトラウスは腰を折り、ソファーに座るハイネに目線を合わせる。 「ハイネ、よく聞いてくれ。君が優秀な技術者であるなら、ミズキに誇れるような技術で名を残せ」 「ミズキ……に?」 「あんなにかわいい息子だけでなく、この先ミズキに続く子どもたちにも、お前の作った怨嗟を背負わせる気か?」  無邪気に笑うミズキの笑顔が胸に突き刺さる。  この兵器(クリスタライズ)の目的は、ディスタンシアを内部崩壊させ、最終的に戦争を終結させることだ。  だってこの兵器は、ディスタンシアが自らの意思において選択しようとしている。  どうしてそれが怨嗟を生む?  あれはクラリスにとって優れた兵器のはずだ。 ーーその爆弾をあなたの息子に持たせて、クラリスに里帰りしてはいかがかな?  ふと保衛員の声が頭の中に響く。  クラリスに良かれと思って作った兵器に自分は追い詰められている。  ここでクリスタライズの威力をなんらかの形で実証しないと、家族が犠牲になる。  でも、自分が諜報工作員として活動する上で利用しているだけに過ぎないシュトラウスを、どうしても失いたくはない。  彼は、ハイネ自身から漏れ出る「クラリス人であるオーラ」をうまくマスキングして、ディスタンシア人に見せてくれる。  長い間付き合ってきて、身体も心も絆されたからなどではない。……絶対に。 「ハイネ」  不意に自分の体がシュトラウスの腕に引き込まれ、上半身を抱きしめられる。  ふわっと漂う石鹸の優しい香り。彼の優しさに丸ごと包まれているような安心感に、何もかもシュトラウスに打ち明けてしまいたくなる。 「やはり、今の君はどこか変だ。全身がこんなにも緊張している」 「僕が……おかしい?」 「クリスタライズの意義を称賛しながら、君は今にも泣きそうな顔をしている。ディスタンシアの勝利のためと言いながら、どこか踏み切れない、釈然としない、だが絶対にそれを許せないという何かを抱えている。クリスタライズ使用を躊躇っている。私にはそのように見える」 「エル……」  シュトラウスという男は、他人の機微に敏感だ。ハイネが黙っていても、心の中に澱む愁訴を的確に当ててくる。  もう、この腕の中でこのまま死ねたら。この任務から解放されたら……ミズキを犠牲にせずに済むだろうか。 (あなたの家族で、この兵器の威力を証明していただくことは可能かな?)  そんなこと……したくない。  自分たちは? ミズキはどうなる?  先を考えることが……今はとても怖い。 「エル……お願いだ。今夜君を抱いていいか」  シュトラウスに縋りたい。彼の海で、彼の温もりに溺れて、何もかも忘れたい。 「僕を……助けて……エル」  胸の中で亀裂を広げ、大切な人への気持ちを蝕んで痛みを増す自らの心に、彼の優しさを注ぎ込んでほしい。  深夜の静寂。ハイネの鬱屈を注ぐその相手は「わかった」とうなづき、ハイネの手を取った。
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