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#3
シュトラウスを抱き、彼の香りを身体に纏わせて帰宅したのは、午前3時を過ぎていた。
玄関ドアをそっと開けると、廊下の一番奥の部屋から灯りが漏れていた。普段ならこの時間はすでにみんな寝ているはずだ。
一番奥の部屋は、ハイネの書斎だ。諜報工作員として必要な資料や情報が保管されている。
「?」
エリカが掃除でもして消し忘れたのか? いや、彼女は部屋の掃除を昼間にする。夜間に部屋に入ることは皆無と言っていい。
足音を忍ばせて部屋に近づくと、ドアが少し開いていて、人の気配がする。
その隙間からそっと中を伺うと、そこには茶色いくまの柄がたくさんプリントされた小さな塊が見えた。
ミズキだ。
この寒いのにガウンも羽織らず、時折コンコンと咳をしながら「すごいなぁ」と感嘆のため息をついている。何か本のようなものを楽しげに見ているようだ。
だが、どうしてこんな時間に起きている?
「ミズキ」
「パパっ!?」
声をかけると、ミズキはびくりと弾かれたように顔を上げ、慌てて自分の後ろに何かを隠した。
「ミズキ、こんな時間に何をしているんだ?」
「なんでもないのっ」
「なんでもないわけないな」
ミズキをひょいと抱き上げる。「や~め~てぇ〜」と手足をばたつかせて抵抗するが、小さな体はそのままハイネの腕におさまってしまう。
こんな深夜にパジャマだけの薄着。ミズキの体は冷え切っていた。ミズキは気管支が弱いから、風邪をひかねばいいがと心配が先に立つ。
「ミズキ、パパの部屋で何を見ていたんだ?」
ミズキはぎゅっと目を瞑り、体を縮こまらせている。
普段から「パパの部屋には入ってはダメだ」と教えてある。エリカにも口を酸っぱくして「入ってはダメよ」と言われているはずだ。
ミズキはそれを理解しているから、ハイネに見つかって怒られると思っているようだった。寒さも手伝って、ミズキは小さく震えている。
「ごめ……なさい。ぼく……」
両手で頭を押さえているのは、ハイネのゲンコツが飛んでくるのを恐れているのだろう。
「ぼく……せんしゃとか、へいたいさんとかの……おしゃしんをみてたの……」
「戦車?」
ミズキが隠したものに目をやると、数冊のアルバムが転がっていた。そしてその中にはーークリスタライズの設計資料も。
ただミズキにはそれが何かはわからなかったようで、文字ばかりの書類は邪魔だとばかりに少し離して置かれている。
我が子がそれを目にしなかったことに、ハイネはホッとする。
「ミズキ、見たのはアルバムだけ?」
ミズキはうんとうなづいた。
「かっこよかったの……ぼくもへいたいさんになりたいなって……ひこうきとか、てっぽうとか、たくさんたくさんかっこよかったの……」
叱られた後の子犬のように、しゅんとしてアルバムを指さす。男の子が憧れるものは、いつの時代も変わらない。自分にもそんな時期があったなと、ハイネは苦笑する。
だがその憧れを仕事にしている今、いいことなどひとつもない。
ディスタンシアは無駄に規制が多く、そして何かと秘密主義の国だ。外国人はもちろん、国民でさえ軍施設に近寄ったり、写真を撮ったりしようものなら、保衛部の人間が飛んでくる。
ハイネはうまく軍の研究所に潜り込めたから、軍関連の写真を撮る分にはなんの制約もなかった。
ディスタンシアの施設や兵装、その他現在の戦力と国力が推定できる材料をクラリスに送っている。そのためのものだ。だからあまり人の目に触れさせてはいけないし、ミズキがうっかり遊び友達に漏らしても困る。だから入室を禁じていたのだが……。
「ミズキ、パパはなんて言ったかな? パパの部屋はミズキが入ってもいいお部屋だった?」
ううんとミズキは首を横にふる。
「はいっちゃ……ダメって……」
「そうだね。それなのにどうして入った? それにミズキが起きてていい時間ではないね?」
「はい……」
ごめんなさいとミズキが大粒の涙を流してしゃくりあげている。かなりひどく怒られると思っているのか、小さな体が震えを増した。
「ぼく、パパのおかお、みてなくって、さみ、しくて……」
「ミズキ…」
「ここのおへや、パパのにおいが、するの。…だから…ぼく……」
もうミズキの顔は涙と鼻水でぐちゃぐちゃだ。言いつけを守らなかったのは良くないが、その理由が父親を恋しがってとなると、怒るに怒れない。
「わかったよミズキ。もう泣かないで」
ミズキには勝てないなと、ハイネは心の中で白旗を上げた。
「寂しかったのかい? でもさミズキ。パパがいなくても、ママがいるから、寂しくなんかないだろう?」
「パパとママ、どっちもいないと、イヤ」
ミズキはハイネの首に手を回して、小さな体でぎゅっと抱きついてくる。
「ぼく、パパとママがだいすき。だからパパママ、りょうほういないと、イヤなの」
ハイネに甘えて抱きつく力は弱くて小さくて。でも幼いミズキの一途な両親を思う強い気持ちが伝わってくる。
それは今夜のハイネがシュトラウスを求めたものに近い。
寂しくて、不安で。ほんの短い時間でいいから、シュトラウスがハイネにくれる優しさと安らぎへの渇望だ。
ミズキにとって、ここは父親に包まれて心寂しさが紛れる場所でもあったのだろう。それがわかるから、ミズキを叱れない。
代わりに泣き癖がついてしゃっくりが止まらないミズキの背中を優しくさする。
「ミズキ。寂しい思いをさせてごめんね。パパ、怒っていないから、お顔を見せてほしいな」
「ほんと……?」
おそるおそる自分に顔を向ける二色の大きな瞳はまだ不安に揺れている。
「おこってない、の?」
「ああ。パパが怒っているように見えるかい?」
ミズキは無言でブンブンと首を横に振る。
「ね、ミズキ、お顔を拭こう? 涙でお顔がびっしょりだと、ママがびっくりしてしまうよ」
ミズキを片手で抱っこしたまま、ハイネはポケットからハンカチを取り出すと、それでミズキの涙を拭ってやる。怒られるのが怖くてたくさん涙を流したから、ミズキの目尻は真っ赤に腫れていた。
「でもミズキ、この部屋で見たことは誰にも言ってはいけないよ。パパとの約束。いいね」
「うん! ぼく、やくそくまもるよ!」
怒られないとわかった途端に、ミズキに笑顔が戻った。
「さあミズキ、パパも眠たいよ。一緒に寝よっか」
「パパといっしょにねていいの?」
「もちろん」
やったぁと喜ぶミズキの声に、エリカが目を覚ましたのか、寝室の辺りで物音がした。
「ミズキ?」
心配げな声が暗闇で我が子を探している。
「ミズキ、起きたの? どこにいるの? おトイレ?」
「エリカ、僕だよ。起こしてごめん。ミズキはトイレにいたよ。今夜は僕の部屋で寝かせるよ」
起き出した妻に帰宅を告げる。ハイネの部屋にいたと言ったら、エリカはミズキをきつく叱るだろう。
「パパ、ママにウソついちゃったの? ぼく、パパのおへやにいたんだよ?」
ママにばれてはいけないとばかりに、ミズキはハイネに耳打ちする。
「ママ、ウソつくこは、わるいこっていつもいってるよ。ぼくとパパはわるいこになるの?」
「違う。それにこれはウソじゃないぞ、ミズキ」
ハイネはミズキの唇に人差し指を当てる。
「ママには内緒。これは男同士の秘密だ」
「おとこどうしの……ひみつっ?」
「秘密」。謎めいたその響きに、ミズキの目がまんまるキラキラになる。幼い子は何にでも興味を示しがちだが、とりわけミズキは知的好奇心の塊だ。なんでも知りたがるし、知らないことを知ると嬉しさに興奮して、もちもちのほっぺが赤くなる。それに「秘密」なんて言葉は大人っぽい。ミズキの好奇心が刺激されているのが見て取れる。
「そう。今夜のことはパパとミズキの秘密だ。誰にも言ってはいけない。秘密なんだからね」
「うん! おとこどうしのひみつ、だもんね!」
ミズキも口に人差し指を当て「シーっ」と口をつぐむ仕草をする。
ミズキと自室に向かいながら、腕に抱く幼子の成長をひしひしと感じる。まもなく五歳だ。かなりミズキも重くなってきた。
それでも全ての資源が不足している国だ。食べ盛りのミズキを常に飢えさせることはしていないが、栄養価の高いものをあまり食べさせてやれていない。成長だって遅くないが、ディスタンシアの同じ年の子と比べても、ミズキはかなり小柄だ。下手をしたらまだ3歳か4歳なりたてくらいに見られてしまうほど背も低いし、手足も小さめだ。
しかもちょっとしたことですぐに熱を出して寝込んでしまう。その度にシュトラウスが心配そうに「ミズキに食べさせてやれ」と食べ物や風邪薬を持ってきてくれるが、薬はおろか、食べ物だってこの国では容易に手に入らない。
シュトラウスの協力があるから、ミズキはこの国で生きているようなものだ。
誕生日を過ぎたら、春からは幼稚舎だ。他の子と走ったり遊び転げていれば、少しは肺活も鍛えられて身体が丈夫になるかもしれない。
だが。
そんなミズキの未来を邪魔するかのように、悪魔の囁きが脳裏をよぎる。
ーー家族ともども、ディスタンシアに命を捧げているのだろう?
情け容赦などない保衛部員たちは、ディスタンシア国家への忠誠が本物かどうか、ハイネに踏み絵を迫っている。
スパイ嫌疑をかけられている今、クラリスのために犠牲を払うか。クラリス、ディスタンシア両方を裏切って、家族を守るか。
どっちを裏切っても、未来はない。
どうせその場で全員殺される。ーーミズキをクリスタライズの最初の犠牲にしない限りは。
最適解はどれだと必死に考える。
自分の腕に抱かれた笑顔の息子と、諜報工作員の使命と任務とを天秤にかけて。
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