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翌朝、ハイネは体調不良を理由に、基地に遅刻する旨を伝えた。
昨日の件は、妻エリカの耳に入れておいた方がいい。それには時間がどうしても必要だった。
陽気降り注ぐ明るい部屋。正方形の小さなテーブルでほぼ占められているような狭いダイニングルームに、ハイネとエリカは向かい合って座っていた。
二人のそばに置かれたティーカップの中の紅茶はすでに冷めている。二人の間には長い沈黙が流れ、ハイネもエリカも力無く項垂れていた。
「あなた……ミズキを……例の実験台にするって……本当なの?」
「保衛部の人間はおそらく本気だ。そして逆らえば、僕たちは……」
その先がどうなるかなど、同じ諜報工作員のエリカにもきっとわかっている。その場で銃殺で済めばラッキーだ。
自分たちの身分がバレた時、その程度で済むとは思えなかった。
ハイネとエリカはどちらからともなく庭に視線をやる。
庭ではミズキが遊んでいた。どこからかやってきたスズメが地面の虫をつついている。ミズキは膝を抱えるように座ってそれをじっと観察していたが、鳥が飛び立つと「ことりさん、まってー!」と庭を走り回り始める。コロコロ笑って実に幸せそうな息子の笑顔を、自ら作った兵器で吹き飛ばせと。
「エリカ、どうする?」
「そうね……」
「僕たちはミズキの親である前に、工作員だ。任務遂行が第一だ」
「……わかってる」
ともにディスタンシアを壊滅に導くため活動している。任務第一に考えるなら、新兵器のデモンストレーションでもなんでもしてやるつもりでいる。
しかし、そのお披露目の主役に指名されたのはーー我が子だ。
「エリカならどうする?」
「ミズキのこと?」
「ああ」
「ハイネ、あなた残酷なことを聞くのね。ミズキひとりにそんなことさせられないし、したくないわ」
エリカは力無く微笑んだ。答えはおおかたハイネの予想通りだ。彼女なら反対するだろうと思っていた。
「そうだな。僕も同じだ」
ディスタンシア人のどこかの子供であるならともかく、実験に差し出すのが我が子なんてありえない。ハイネはそう思っている。
しかし、ディスタンシア軍はこのクリスタライズに大喝采している。どのみち、保衛部は軍の上層部の連中にハイネに実際に使用させる旨を進言するだろう。
それでも、ミズキを失えない。
「エリカ、君に策はある?」
エリカの厳しく強い視線がハイネの瞳の奥を射抜いてくる。彼女は静かにハイネに答えた。
「私がミズキと死ねば、それでいい?」
「えっ?」
エリカは今、なんと言ったのだ。自分の聞き間違いか。ハイネは思わず聞き返した。
彼女は落ち着いて柔らかく笑っている。
「ミズキを一人だけ逝かせるなんてできないわ。でもここで何かしらの犠牲を払わないと、私たちの目的が達成できなくなる」
「エリカ……」
「ミズキと私の体にクリスタライズを埋め込んで。そして里帰りするわ。……ハイネ、あなたの故郷に」
「エリカ、何を言い出すんだ」
この兵器で攻撃を仕掛ける相手は、ディスタンシアだ。ハイネもエリカも、ディスタンシアを壊滅に導くために、この国にいる。この国がギブアップを世界に申し出るまで、内部からじわじわと痛めつけていく。それが仕事だ。
二人がクリスタライズで命を落としたら、それこそディスタンシアを喜ばせることになるじゃないか。
エリカは正気なのか。ハイネの頭が怒りで熱くなる。
「エリカ、冗談はやめるんだ。これは君とミズキが持つ兵器じゃないんだ」
彼女の意図がわからない。エリカがミズキと心中する必要なんてない。ディスタンシアの無理難題を回避するために、こうして打ち明けたのに、どうして彼女はミズキを道連れにしようとしているのか。
全く理解できないし、夫としてそれは許せない。
「エリカ、まだ僕たちは完全に疑われたわけじゃない。家族全員、いや、君とミズキだけでも一緒に逃げる方法を考えようって言ってるんだ。なのに、どうして君は最悪の事態しか考えない!?」
「……このままでは、私たちは何も出来ずに終わるわ。あなたが疑われたということは、もう常に誰かの目が光ってる。動くに動けなくなる。そうなれば、このイカれた国が滅亡するのを見届けられない。ディスタンシアにいいように働かされて殺された、家族の仇さえ……取れずに終わるわ」
ハイネはエリカが諜報工作員となった背景を知っている。逆にそうでなかったら、互いに惹かれることもなかった。
エリカの故郷は自然災害の影響で、人が住める状態ではない。
ディスタンシアは国力のないリーベットを支援するという目的で、好き放題に資源も人も食い散らかした。
自国の諜報活動さえリーベット人にさせている始末だ。勤勉で知られるリーベット人は、かつての国力や技術力が高かったこともあり、どこへ行ってもあまり怪しまれることがなかったが、最近はそれも警戒されてきている。
エリカ自身も子供の頃にディスタンシアの工作員養成所に半ば拉致のように召集された。
なんの準備もなく親元を離されて、暗殺や厳しい行軍、それに外国語や各国のマナーなど、「派遣された国の人間になりきり、かつ任務を遂行する」実務訓練を受けた。
自分が働けば、家族は楽な暮らしができるぞーーその言葉を信じて、自らの手を罪の色に染めたのだ。
だがディスタンシアは、余計なことを周りに吹聴されては困るという理由で、スカウトした子ども達の家族を一人残らず殺害していた。多くの場合は遺体も出ていない。
国を信じ、家族を守ろうとして働く工作員となった家族の痕跡をも消したのだ。
子ども達の帰る場所を失くし、生命と生活を徹底的に管理し、冷たい血が流れる冷酷な工作員を育成していった。
ハイネはエリカの背景を知るからこそ、エリカの申し出が悲壮に満ちた重苦しい決断であることを理解している。
故郷の家族を失った彼女にとって、ハイネとの生活はディスタンシアを倒すためのかりそめであったとしてもーーハイネとの間に授かった我が子は本物の家族で、エリカのたったひとつの宝物だ。
ミズキだけは絶対に離さないという母親の執念が見えた。
だが、彼女が出した結論は、極論すぎる。
確かにハイネは今嫌疑をかけられている。下手に動けないのも事実だが、絶対に何か策はあるはずだだ。皮肉にも職務上、自分たちは人を出し抜くことには長けているのだから、今からでも家族三人が助かる方法を考えればいい。
最悪の結果は、その時に覚悟を決めればいいのだ。
「エリカ、君は間違っている。考え直してくれ。ミズキとともに家族でどこかに逃げよう」
「どこへ?」
「どこへって……」
ハイネは言葉に詰まった。それを今から話し合いたいのだ。
だが、エリカは眉ひとつ動かさない。
「私たちは諜報工作員。祖国も敵国も裏切ったなら、どこに逃げても安住の地なんてない」
「そんなことはない!」
ハイネはエリカの手を取り、必死に懇願するが、彼女は黙って首を横に振った。
「エリカ、冷静になってくれ」
「私たちの無念は、あなたが晴らして。ハイネ」
「エリカ!」
「私たちは爆薬を抱いてクラリスへ行く。あなたはディスタンシアで私たちをモニターして。そして私たちが指定の場所に着いたら……あなたが起爆信号を出して。そうすればあなたの嫌疑は晴れ、ディスタンシアでの地位は確かなものになるでしょう。実績を作りその結果でもって、権力と軍の信頼を手に入れれば、活動はぐんとやりやすくなる」
「エリカ!」
「工作員となった瞬間から、私たちはその存在を何もかも残せない。あなたが疑われているなら、近いうちに秘密警察が来るはずよ。ここの馬鹿どもは単純だから、泳がせて確たる証拠を取るようなことはしない。『疑わしきは処刑』の国よ。知っているでしょう?」
確かにそうだ。どうでもいい嫌疑で隣人が一晩で家族ごと消えたなんて話、ディスタンシアでは日常茶飯事だ。
「私たちはどこかへ連れて行かれて、家族それぞれ引き離されてしまう。敵に拷問されて、機密を吐かされて、私の知らないところでミズキが酷いことをされるくらいなら……私はミズキと一緒に逝く」
「そんなことさせられるものか!」
「わかってハイネ……。私にはミズキしかいないの!」
彼女の瞳から、涙が一筋こぼれ落ちた。
「私の血を引く可愛い我が子が、私の最後の家族なの。私は絶対にミズキだけは離さない」
静かなる慟哭がハイネの胸に突き刺さる。故郷で彼女を待つ家族もとっくに殺されてもういない。
彼女にとって、自分の血を引く肉親は、お腹を痛めて産んだミズキだけだ。
だからと言って、彼女の考えがハイネにはわからない。ミズキと心中しようとしている彼女の頑なな考えが。
時間だってまだある。議論を重ねる余地だってある。それにハイネとエリカはミズキの親だ。親ならば、子どもの命を都合よく好きにしていいはずがない。母親の執着がそうさせているのなら、尚更ミズキとともに生き延びる道を模索するべきだ。
どうして結論を破滅にしか導かない?
どうして一番の悪手を選択しようとする?
エリカだってわかっているはずなのに。ハイネにはそれが歯痒くて仕方ない。
「それをいうなら、僕にだってエリカとミズキは大切な家族だ。お願いだからミズキのためにもより良い方法を見つけよう」
だがエリカは翻意せず、逆にハイネの手を解いた。
「そうよハイネ。私にとってあなたは大切な家族であり、私の初恋の人。あなたは私にいろんなことを教えてくれて……。私にミズキを授けてくれた」
「エリカ……」
「でもあなたの任務を行うには、私とミズキが足枷になる」
「そんなことはない……」
そんなことなければ、どうすればいいのか。代替案を示せない。
淡々とした彼女の意思を翻す術が、ハイネには見つからない。結論に向かって彼女の意思が加速していくのがわかる。
夫として、父として、そして同じ志と目的をもつ諜報工作員としても、エリカの決断だけは受け入れてはいけないのだ、絶対に。
「あなたで私たちの任務を達成させて。……きっと私たちは、あなたにクラリスからの帰還報告できないから」
彼女は涙に濡れた瞳でにっこり笑った。
「私の命で、最愛の人の任務達成の役に立って……。最後の瞬間までかわいいミズキを抱きしめていられる。こんなに嬉しいことはないわ」
受け入れざるを得ないのか。そうするべきなのか。それしかないのか。
互いの間に流れる沈黙の先が怖い。
ハイネの心を絶念の棘の蔓が傷をつけながら締め上げていく。エリカを止めたくて必死に方法を考えたくても、ハイネの言葉が彼女まで届かない。頭が鎖で雁字搦めにされているようで、エリカを止める術も見つからない。
妻として、母として、同じ目的に向かう仲間として。ミズキによく似た彼女の、純粋に覚悟を決めた笑顔が辛すぎて。
そしてそれに何も代替案を示せない自分がもどかしくて。
ハイネは目を伏せることしかできなかった。
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