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序章:ななふしぎ
覚醒一番、舞い散る埃にむせてしまう。
周囲は墨を流したような闇ばかり。一寸先すら判別がつかない。
――どこなの、ここは。
ぬるい空気を掻き分けて、少女は手探りで周囲を探る。
指先にひんやりとした感触が伝わる。金属製の無骨な棚だ。等間隔で幾つも並んでいる。積まれているのは段ボール箱らしい。恐らくどこかの倉庫だろう。
闇をまさぐっていると、引き戸と思しき木製の板を発見した。しかし、鍵がかかってびくともしない。
――もう、閉じ込めるなんて酷いじゃない。
誰の悪戯だろうか。女の子をいじめて楽しむとは実行犯の品性を疑ってしまう。
もっとも、その悪行は無意味だ。
少女は全身を弛緩させて引き戸へと倒れ込む。すると摩訶不思議、ぶ厚い木板の存在を無視し、か細い体は向こう側へとすり抜ける。
最初からこうすれば良かったのだ。
倉庫から出て周辺を見渡すと、そこはまたも闇がびっしり敷き詰められている。左右を貫くのは廊下だろうか。真っ直ぐとリノリウムの道が伸びている。冷たい壁からは三年一組、二組と順々に表示が飛び出している。ここは学校らしい。仄かに漂う木の香りが懐かしさをかき立てる。
――あれ、ちょっと待って。普通におかしくない?
当たり前のようにした行動に、少女はようやく疑問を覚える。
自分はどうやって戸をすり抜けたのか、と。
壁抜けマジックとは訳が違う。日常生活動作同然にすり抜けなんて一般人には到底不可能だ。
では、どんな存在ならできるのか。
その答えは、霊。
肉体を失っていれば、物質を無視して行動できる。
つまり、少女は既に死んでいるのだ。
「え、嘘。どうして」
そこで更なる違和感が、電流のように全身を駆け巡る。
何故霊になったのか。という、原因以前の話である。
「全然、覚えていない」
少女は、自身が何者なのかすら分からなかった。
脳裏をよぎるのは靄がかかった記憶の断片ばかり。
あり大抵に言えば、記憶喪失である。
唯一道標になりそうなのは、この場所に懐かしさを感じることだけ。恐らくこの学び舎――小学校に通っていたのだろう。唯一の手掛かりだ。
何が、どうして、こうなった。
自分は何者なのか。霊になった原因は何か。全てが謎に包まれている。
得も言われぬ不安が這い上がってくる。
――誰でもいいから、この状況を説明して!
いてもたってもいられず少女は駆け出す。といっても霊体なので、中空を滑るように移動しているだけだ。低空飛行で廊下を突き進んでいく。
「あっ、下に誰かいる」
階段に辿り着くと、ぼんやり薄明かりが目に映る。階下より照明が漏れているらしい。ここよりずっと下、一階に人がいるようだ。
少女は誘蛾灯の羽虫よろしく、脇目もふらず助けを求めて飛翔する。
自分は人の世から切り離された霊だ。まともに人と話せるはずがない。
だが、それでもいい。
とにかく今は、暗闇から、孤独から抜け出したかった。
一階に降り立つと、そこは広く長い廊下だった。二つの校舎を結びつける連絡通路、渡り廊下と呼ばれる道だ。右手は昇降口になっており、焦げ茶色の靴箱が整然と並んでいる。
そんな場所に、一人の青年が立っている。
白いシャツに黒々としたパンツ、夏仕様のリクルートスーツだ。その格好とがっしりした体格からして生徒ではない。そもそも夜中にいるのが不自然極まりない。子どもを狙う不審者だろうか。非常に怪しい。
――って、選り好みしている場合じゃないよね。
首を大きく横に振り、頬をぴしゃりと叩いて気合い注入。勇気を振り絞り一歩踏み出す。
話しかけてみよう。
駄目で元々。普通の人間なら感知できず無視されるだけ。何事も挑戦だ。やってみなくちゃ分からない。
ごくりと固唾を呑み、スーツ姿の青年の前に降り立つ。
「……――ぁ」
第一声。
喉を震わす寸前で、思考が真っ白に染まってしまう。
相対する青年の相貌が、月明かりに照らされ露わになる。
癖っ毛ながらも艶やかな黒髪。陰影を深く刻む整った鼻梁。そして見開かれる、切れ長で黒曜石のような瞳。
――かっこいい。
霊体の内部で激流が巻き起こる。とうの昔に止まったはずの鼓動に代わり、暴れ川と化している。
まさか、こんな状況で一目惚れするなんて。
初対面の青年相手に声が出ない。ぱくぱくと口を開閉させるしかなかった。
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