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唇に、柔らかな感触がした。
軽く息が詰まったので、口呼吸になっていたのかと、天才科学者・蓮見はぼんやりと思った。
無意識に、啄みたくなるような柔らかさだと思いながら、蓮見がうっすらと目を開けると、至近距離で黒曜石の瞳と出会った。
蓮見は、思わず叫んでいた。
「お前…!キスする時は目を閉じろ!!」
「ツッコミどころはそこなのですか?因みに、私はお前ではなく佐藤縁です」
今日も美しい秘書はスッと蓮見から離れて、きょとんと蓮見を見つめている。
確かに、今のは外した、しかも実際に甘い気分で啄むところだったと、蓮見は頬に熱を感じながらややズレていた眼鏡をかけ直した。どうやら、自分はオフィスチェアにもたれて居眠りをしていたらしい。
……ところを、美人秘書・佐藤縁のキスで目を覚ましたと。
縁が、にこりと笑いかける。
「15分から20分、が良いのでしょう?」
「…効率の良い仮眠の取り方か?」
以前、縁が昼寝をするくらいなら、夜にキッチリ寝た方が良いのではないかと言った時に、宵っ張りの蓮見が仮眠は脳を活性化すると教えてやったのだ。
確かに、蓮見がPCの時刻を最後に記憶した、そこから20分ばかりが経過している。
「起こしたいのなら、普通に名を呼べばよかろう」
「5回呼んでも起きなかったので」
「どうして、そこからキスに飛躍する?声量を上げるとか、肩を叩くとか、それでも駄目なら肩を掴んでお前の馬鹿力で揺するとか、方法はほかにいくらでもあるだろう」
「お前ではなく縁ですが、私の馬鹿力で揺すると、ドクターが破損するので避けたいと思います」
「私を機械部品みたいに言うな」
佐藤縁は、蓮見が以前勤務していた大学で、別の教授の秘書を務めていたのだが、魅惑的なヒップを触られて思わず古武術の突きを炸裂させてしまい、セクハラ上司を全治1ヶ月の旅に送り出した剛の者だ。
それでクビになった所を、蓮見が秘書兼ボディーガードとして雇った、という次第。
「お昼寝から覚めたところで、もうひと休みしませんか?」
縁は、蓮見の前にエスプレッソと砂糖壺を置いた。蓮見はエスプレッソにドバドバ砂糖を入れて、縁はマイペースにハーブティーだ。ティーカップから良い香りがして、何という名なのだろうかとふと蓮見は思った。
「…おい」
蓮見はエスプレッソを飲み干すと、縁が流した話題をもういちど掘り返すのは気まずいが、言うべき事は言っておこうと思った。
「キスは好いた相手だけにしておけ」
「ドクターはイタリア育ちでしょう?恋人同士でなくても、これでもかとキスをしまくるのでは?」
「しまくるのは、家族間や夫婦か恋人同士か、或いは恋人になるかどうかキスの相性をこれでもかと試したがる連中だけだろうよ。友人知人はやらん。それに、生まれも育ちも生粋の日本人の、…貴女が真似をすることはない」
友人知人とふたつ並べたのは、蓮見にとって縁が曖昧な存在だからだ。
高名な科学者という立場上、蓮見の人間関係はかなり広いが浅くもあり、知人レベルが多い。
それを思えば、縁は多分蓮見にとって、親しいと言える稀少な人間だ。
ある有名大学で最年少で教授の座に上り詰めた蓮見だが、組織という面倒臭いものに縛られるのが嫌で、自分で研究所を立ち上げた。
しかし、天才科学者・蓮見は周りの人間は総じてアホで気が利かないと思う気難しい性分なので、今までの秘書は3ヶ月以内に辞表を出した。
だが、縁はよく気が利いて蓮見を苛つかせない貴重な人材で、採用してそろそろ1年になる。
かといって、友人かと言えば蓮見は縁に友情を感じた覚えは無い。
縁は優秀な秘書で優秀なボディーガードなので、シンプルに部下だ。――――そうでなくては、ならないのだから。
「好きな相手…ですか?では、ドクターの好みのタイプはどんなひとでしょうか。3つ条件をどうぞ」
「…は?いきなりだな。しかも何で3つだ」
「人間は欲深です。言葉を尽くせばあれもこれも出て来ますので、かなり好ましいとか、これは譲れないとか、その辺りになると3つくらいに絞った方がハッキリしませんか?」
何でハッキリせねばならんのだ、と言い返そうと思ったが、蓮見の優秀な頭脳はすぐに答えを出してしまったので、そのまま答えた。
「美人だ」
「…………」
縁が、ハーブティーののカップをコトリと置いた。
「いきなり顔ですか」
「中身が同程度の場合、外見の良い方を選ぶのに決まっている。それに、まずは見かけに目が行かないと、中身に目がゆく機会が無い」
「論理的且つ容赦が無くて、ドクターらしいですね」
「論理的なのは私の仕様で、容赦が無いのが世界の現実だ」
「そういうところがドクターらしいです。…では、ふたつ目は?」
蓮見は、淡々と応えた。
「邪魔にならない人間だ」
「…………」
縁は、長い睫毛を瞬いた。
「ドクター。私が好きなタイプと言ったのは、恋人や伴侶という、共に生きる相手に求める条件を訊いたのですが?」
「そんなことは承知している。私は、骨の髄まで一生科学者だ。研究中心のマイペースの生活だ。私のペースを乱す人間は漏れなく邪魔で、愛する以前に論外だ」
「……成程?では、最後の3つめをどうぞ」
蓮見は言った。
「共に在る時、私が安らぎを覚える相手だ」
「…………」
縁が、5秒ばかり沈黙したあとに、じーっと蓮見を見た。
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