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8-2 .覚醒
「いいえ……我らが意趣を返す相手は……公儀」
唸るように吐き出した伊織の返答に、綱堅は目を閉じた。
「で、あろうな……余が、そのようにお前達を鍛えたのだから」
盲目的に綱堅に仕える小姓衆は、次期執政となるべく鍛え抜かれた精鋭達である。
愛しい主をこのような姿にされて、大人しくしている連中ではない。
あの日、江戸の下屋敷を殲滅したまでは良かったが、篠笛組の瑛蔵が正室•暁子にとどめを刺さずに水野家へ送り返した。
その報告に一抹の不安を抱かなかったわけではない。しかし、暁子が生きながらえることで水野家の干渉を封じたかった。
まさか、腕の立つ藩士を故意に脱藩させ、下城直後の警備が手薄な隙を狙われるとは思わなかった。
いや、名門の誇りとやらを見誤っていたのだ。
物心つくまで藩主の子と知らずに育てられた庶子根性では、そんなもの、分かるわけがない。
正当な名門の姫である暁子とは、元より誇りの有り様が違っていたのだ。
「殿にかような仕打ち、許す我らではございませぬ。万が一、一色家再興が叶わぬ時は……江戸を火の海にしてやります」
自分の為に命を賭して働いてくれる者達がいる。公儀を半ば脅してでも国入りと弟の世話を買って出てくれた姉がいる……人という宝、これを持つ事を誇りと呼ばずして何と言うのか。
譫言のように、綱堅は名を呼び始めた。
「姉上、義兄上、差兵衞……」
「殿? 」
「修理、市兵衛、伊織、瑛蔵……主碼」
「いやですっ」
いきなり、伊織は綱堅を突き放した。
糸の切れた人形のように、パタリと綱堅の体は倒れてしまった。
「あんな奴の名をあなたの口から聞きとうはないっ! あやつは、想う男と手に手を取って、かようにお苦しみの殿の事など歯牙にもかけず、ぬくぬくとあの蓮之介めの腕の中で……」
覆い被さるように泣きながら喚く伊織の口を、綱堅が指で塞いだ。
「鎮まれ、伊織……余が、そう致せと命じたのだ」
「何故です、下士の子でありながら、あれ程ご寵愛を受けた恩を忘れるなど」
「そうではない。あの二人を無理に引き裂いたのは、余の方なのだ……主碼は、褥を強いられながらも、よう仕えてくれたのじゃ。それに……」
「それに……」
「余には、其の方がおる。いつ目覚めるかも知らぬ余を、心を尽くして看病してくれた其の方、伊織がおる」
ああ、と伊織が綱堅にしがみついた。
「余には伊織がおる……可愛い伊織がおれば良い。待っておれ、今に体を戻し、おまえが堪忍じゃと泣いて許しを乞う程までに抱いてやろう」
「本当に」
「ああ……今の余には、それしか、おまえに報いてやれぬ」
綱堅は天井のシミを見上げた。
自分の命など、公儀にとってみたらあの天井のシミに等しかろう。
しかし、シミにも一分の魂がある。
公儀が一度下した判断を覆すことはない。
たとえ譜代の有志が訴え、8代将軍の心を動かしたとしてもだ。いや、あの為政者はびくともすまい。公儀の権威を損ねる真似をむざむざするものか。
おそらく、この者達は水野家を巻き込みながら意趣を返し、何が何でも公儀に一矢報いて一色家の再興を目指そうとするだろう。
しかし、領民を巻き込み、領民が公儀に力で制圧されるようなことは何が何でも阻止せねばならない。
雪が地表の塵を押し包んでやがて溶けていくように、自分もまた……吾妻を守る礎となる融雪になろう……。
綱堅の情熱を探すように、その逸物を伊織が口に含んで愛撫を続ける。
「あ……」
二人が驚いたように目を合わせた時、綱堅の『男』が覚醒した。
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