6.息吹

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6.息吹

 半信半疑とはいえ、一応納得した体の喜兵衛に、二人はその足で診療所の跡を見せてもらうことにした。 「ウチはねぇ、貧乏じゃなきゃ入れないってなくらい貧乏人しかいない長屋でね。家賃なんざまともに入ってきたこともねぇや。奥の2棟は特に、食い詰めた浪人者や流れ者、それもウジが湧きそうな男の一人モンばかりときた。だからね、あんたみたいな色っぽいお小姓は、すぐに襲われるじゃないかと思ったわけなんですよ」  喋り続ける喜兵衛の後をついて歩き、その表長屋の裏手、広小路と並行するようにくねくねとまさに蛇の背骨のように伸びる通路を通り抜けると、裏長屋の突き当たりに、破れ障子の引戸が傾き中が丸見えになっている空き家があった。 「元々、この診療所は三軒分をぶち抜いて広くしたんですがね。ったって、せいぜい裏長屋の4畳一間の三軒分なんざ、タカが知れてらぁ。ま、好きにごらんなさいまし」  大家は壊れた引戸をすっかり取り外してしまい、二人を中へと誘うと、すぐにまた通路を戻っていってしまった。 「こいつぁ……」  下士が住む貧しい長屋で育った主碼でも、ここの荒れ様は想像以上であった。特にこの突き当たりの周囲は、狭いだけに単身者が多い故か、通路に沿って掘られている汚穢(おわい)のドブには汚れが溜まり、羽目板はそこここが折れて欠けている。伝法院通りに近い方は、もう少し間取りの大きな棟割長屋もあり、まだ清潔感があるが、ここはまさに、ナメクジとネズミが好みそうな裏長屋らしい裏長屋であった。  埃の溜まった板の間に、それでも二人は履物を脱いで素足で上がった。ひんやりとした板間は、長い間人の温もりに触れていないかのように、みしりみしりと音を立てた。  だが、そんな荒れ果てた屋内にも、かつてここに泉州出身の老医師が、人々の為に日夜働いていた記憶が、其処彼処に残されていた。 「百味箪笥に、これは診察台か……確か、蘭方医だと言っていたな、先任の医師は。おい、これ」  蓮之介は目を輝かせ、文机の上に無造作に放り出されていた書物を手に取った。蘭書を自分で書き写したものか、左の項には蘭語、右の項には日本語での訳文が併記されていた。 「これは、俺が師匠の元で見せて頂いた外科治療の原書を書き下したものだ。すげぇ……俺の何十年も前に、これだけの事を成していた人がいたとはな」  主碼は主碼で、百味箪笥の周りに散らばる製薬道具の数々を手に取っていた。そこにも、幾つもの書物が転がっていた。  ネズミの糞をはたき落してそれを捲ると、野草を使った効能を、自分の体で試した記録が記されていた。 「すごい……この先生、ここの方達に薬料の負担をさせまいと、独自に野草を組み合わせたりして効能を研究なさっている……蓮之介様、これはもう、心してお預かりしなくてはなりませんね」 「ああ……」  感慨に耽る蓮之介の横で、主碼はさっさと袂から手ぬぐいを出して髪を覆い、襷掛けの姿に早変わりをした。 「大家さんに掃除道具を借りてまいります。あなた様は外に出せるものを外に。お願いします」 「え、あ、おい」  否応もなく、主碼いや紫野は、軽快な足音共に行ってしまった。
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