8-1.覚醒

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8-1.覚醒

 さんざんに国家老に自分を味合わせ、沙織はまだ熱の冷めやらぬ体をくねくねと揺らしながら綱堅の庵に戻った。  内藤家はこの頃、先の『江島生島事件』で流罪となった大奥総取締・江島を、風光明媚な城郭外れの住居に押し込めている。  侵入者を防ぐために囲いが張り巡らされ、小さな住居には常に見張りの武士が詰めていた。屋根にも忍び返しが使われ、針のように尖った軒先は、物々しさを十分に伺わせる。が、その実、江島は日々穏やかに、世話を請け負う下女達と談笑をしつつ、部屋から見える信州の山々を眺めて過ごしていた。  綱堅は正室の弟であるため、罪人ではなく、あくまで預けの身として、比較的家人の出入りも自由に許されていた。  しかしながら、流罪人の預かりと、意識不明の傷病人の世話には莫大な費用がかかっていた。藩の財政に憂慮をした真知姫は、自ら看病のための国入りを夫を通じて公儀に願い出た。水野家に傾いた裁可を下した手前、正室が江戸を離れるのはご法度ながら、嫡子と側室を江戸に留めることで公儀も異例の許可を出すより他はなく、横たわったままの綱堅を高遠まで運ぶ三月にもわたる長旅にも、真知姫は付き従って献身的に看病に当たったのであった。  それだけに留まらず、彼女は密かに嫁入り道具を売り払って旅費の足しにし、弟が過ごす庵も彼女自身の手で整備されたのであった。  幸いにもそのことが、藩内でのいらぬ反発を避けることにもなり、今のところ、高遠藩に綱堅を排そうとする動きはないようであった。 「只今戻りました」  式台から瑞々しい声でそう告げ、沙織は上機嫌で真っ先に綱堅の寝室を目指した。と言っても、瀟洒な庵にそうそう部屋の数があるわけではない。 「戻ったか」  入室の許しを得ようと廊下に跪いた沙織に、気配を察した中の人物から声がかかった。    優雅な所作で沙織が障子を開けると、月代も伸び、総髪を背中に垂らしたままの帷子姿で、綱堅が布団に座したまま縁側の向こうの山並みを見つめていた。  沙織がここに辿り着き、付きっ切りで世話を尽くして半年経った頃、綱堅は奇跡的に意識を取り戻したのだった。しかし、2年以上も寝たきりであった体は弱りきり、起き上がる筋力とて失われていたのであった。  半年近くに渡って沙織が四肢を動かし続け、少しずつ少しずつ、筋力を戻していった。こうして起き上がって座していられるようになったのは、二ヶ月前、初雪が散らついた晩秋のことであった。 「まぁ、お風邪を召されますよ」  沙織は慌てて綿入れをその痩せた肩に羽織らせ、障子を閉めた。 「只今、お薬を」  立とうとした沙織の手を、綱堅が力なく掴んだ。  引き寄せる僅かな力に逆らうべくもなく、沙織は綱堅の膝の上に横座りになり、その細い首に両腕を回して頬を寄せた。 「国家老と楽しんで参ったか、伊織(・・)」  綱堅が沙織……いや、元吾妻藩江戸留守居役の庶子で元小姓衆・長沼伊織の裾を割って太ももを撫でると、伊織が腰をくねらせて婀娜な吐息を漏らした。 「いやな殿……楽しんでなど……起き上がれるようになって嬉しゅうございます。本当に、伊織は、伊織は……殿! 」 「苦労をかけてしもうたの……他の者達は、どうしておるだろうか」  うっとりと綱堅の肩に頭を預け、伊織は涙の光る瞳で綱堅の鼻筋を見つめていた。 「殿が吾妻にお戻りになるべく、働いてございます」 「水野家と事を構えておるのか」  まだか細い声ながら、その言葉は尖った錐のような鋭さを孕んでいた。
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