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僕は視線を合わせないでいると、静来が右手で肩をついてきた。
「生吾に1番先に報告したくって伝えたのに、なんなのよ、その態度は」
入森静来。音楽科新設校への入学を機に地元を離れる。彼氏の僕の態度が気に入らないらしい。
「おめでとうって言ったろ。歌も聴かせてもらって、ありがとうも言った。他に何があるって言うんだよ」
「感情がこもっていない気がする」
「おめでとう、頑張れよ」
静来は納得していないような感じで、小首をかしげていたけれど、別れる時は笑顔で手を振った。
それから23年の月日が流れた正月。久しぶりに実家に帰ると、僕を2人の子どもが訪ねて来た。
「私たちの母は入森静来です」
静来の娘と息子だった。14歳の海都さんと12歳の陽都君。
「お母さんを助けて下さい」
お母さんを助けて下さいとと言われても。いったいどうしたらいいんだろう。
「お母さん、父の事や職場でのストレスで体調を崩してしまって。起き上がるのも大変で。父とは離婚して退職もしました」
そして実家に帰ったけれど、両親との関係が上手くいっていなくて、私たちも辛くて、何とかならないかと思っていた時だった。
「お母さん逢いたい人がいるの。成人式の夜に2人きりで雪合戦したなぁ、生吾は良い父親になっているかなぁ、逢いたいなぁ」
こう言ったと教えてくれた。雪合戦を公園でやって、コンビニでおでんセットを1つ買って。好きな具材を食べて、おでんの湯気と白い息の手前で笑い合った僕ら。静来も覚えているかな。懐かしい思い出だ。青春していたなあ。
まぁ僕も恋愛をしてこなかった訳じゃない。でも結婚前に必ず上手くいかなくなる。だから独身。
「僕でいいの? お母さんには、お姉さんも弟さんもいるよな。まずは親族からが」
2人は揃って首を横に振った。
「お母さんが嫌って言いました。それにこの前は夜中に、生吾って名前呼んでいたんです」
それでも……。とりあえず、時間がある時に電話したいと伝え、静来の電話番号を教えてもらった。
そして、2人の来訪から3か月後の春休み、静来の具合が良く、晴れた日に同居を開始。
「本当にいいの静来。広い部屋とか探すよ」
疲れ果ている静来は、ベッドに横になりながら言った。
「いいの、生吾の声がすぐ届くから。ごめんなさい、色々迷惑かけて」
「何言ってんだよ、迷惑かかってないから」
そうして暮らしていると、子どもたちからこんな言葉をもらった。
「お母さん少し元気になった気がします。僕らも嬉しいです」
そして話し合いを続けて結婚。本当に悩みすぎていた僕に、1歩前に進む勇気をくれた子どもたち。感謝の気持ちでいっぱいだ。
新生活にいつも躓いていた僕は、学校も生活環境もガラリと変わってしまっ2人を心配してばかりだ。
「ザ・お父さんだなぁ。有難うございます、心配してくれて。中3でピリピリしているけれど何とかなってる。陽都もだよね」
「家での生活が楽しいって、お父さんに出逢えて感じてる。僕、サッカーの話で友達出来たんだ」
無理していないだろうか。無理させてはいないだろうか。具合が良い時は、静来はキッチンにいる時間が多い。
「食器とか揃えたいなって。生吾と一緒に買い物に行きたいの」
「そうだな、具合の良い時に行こうか」
ここ数日はキッチンにいる事が多い。朝は辛いらしいから、海都と僕が交代で準備したり一緒に準備をする。夕方は比較的、キッチンにいる事が出来ると言う。
買い出しに行った日は、帰って来てすぐに横になっていた。子どもたちはGWでも今日は部活の日。僕が傍らにいてスマホを見ていると、静来が僕の名前を呼んだ。
「生吾、弾き語りしてほしいの」
いや、弾き語りはやっていないんだ。30歳手前で限界を感じて、もう弾いていないんだ。でも、そんなことは言えなくて笑いながら言う。
「最近、忙しくて弾いていないし歌っていないし」
「でも聴きたいの」
隣の部屋からギターを持って来た。静来と僕の思い出の曲の前奏を弾いていたら、微かに鼻歌が聴こえてきた。微笑みながら静来が僕を見ている。遠回りしたなあ僕ら。こんなに近くにいて幸せだよ。
僕は歌い出して止めた。何で? 何で中学生の頃の声。静来に初めて弾き語りした時の声だ。変声期が来る直前の声。ソプラノの声で、それが嫌で変声期を待っていた頃の声。
「その声って、生吾が悩んでいた時の声。私は可愛くて好きだったよ。続けて歌って」
静止した僕にかまわず、静来が弱弱しい声で歌い始めた。弱弱しくても上手い。
「生吾、早く弾いて。そして一緒に歌って。面白いわね、私の声もあの頃に戻っている」
僕は弾いて歌った。嫌いな声で歌った。
静来が元気になりますように。身体を思いきり動かせますように。そう願いをこめて。この歌も願いの歌だから。
弾き語りを終えると静来が泣いていた。
「生吾、ありがとう。最後まで弾き語りしてくれて」
「静来もありがとう。最後まで歌ってくれて」
お互いに感謝する声は、大人の声になっていた。
(了)
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