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12.私は今、おかしくなってますか?
部屋にスタンリーと2人きりになり、クリフトについて話そうとしていた気がする。
急に苦しくて、うまく息ができなくなった。
「息を⋯⋯大きく深呼吸をしてくれないか? ルミエラ⋯⋯」
クリフトの事を思いだした途端に呼吸ができなくなる。
生まれながら持っているものは、神の領域でどうすることもできない⋯⋯。
そのような事は私が誰よりも知っている。
クリフトがサイコパスなら、彼を理解する事は一生無理かもしれない。
前世で私は言葉を発する事が一生ないと言われても諦めきれず、健太に話しかけ続けた。
そのような私が周囲から奇異な目で見られていた事も気がついている。
それでも、私は健太が幸せなら自分はどうでも良いとさえ思える程に彼を愛していた。
頭のおかしい女と思われても、健太を見る周囲の目が少しでも優しくなるならどうでも良いとさえ思ってた。
「深呼吸⋯⋯しましたよ。私は今、おかしくなってますか? それでも、スタンリー、あなたに話したい事があります。狂った妻の言葉を聞き入れてください」
頬に手を添えて囁いた私の言葉はスタンリーに響いているだろう。
私はどれだけ、彼が私に弱いかを知っている。
合理的? 計算高い? 客観的に見ても私はそのような最低な女だ。
「君は狂ってなどいないよ⋯⋯狂っているとしたら俺の方だ⋯⋯」
本心からの言葉だと、彼が私を見つめる瞳の真っすぐさから分かってしまう。
「クリフトの真実⋯⋯彼がどのような事を考え過ごして来たのか⋯⋯彼の話すことが、本当か嘘か断定できないけれど知って欲しい」
堪えきれない涙とは溢れてしまうようだ。
私は不安で仕方がなかった。
願わくば死の運命にあるモリレード公爵家には関わりたくない。
「言葉を発さなかったのは意図的だったとか? それだけは聞きたくなったな」
苦笑するように告げてきたスタンリーを私は強く抱きしめた。
唯一の後継者であるクリフトの発語がない事で彼も悩んでいた。
自殺したミランダ夫人は、彼に比べれば周囲から守られて来た。
夫に非難され、責められる哀れな夫人⋯⋯耐えられなくなり自身の命を断ったと⋯⋯。
一方で、妻を失ったスタンリーによる陰口は続いた。
妻を追い詰めるまで苦しめた最低な夫。
自分が殺したのが同然な妻を失った後に若いメイドを娶った男。
私は自分の罪悪感を消す為に、私も陰口に加担するようにスタンリーを責めた。
憧れだったスマートな公爵様、妻が亡くなるなり若い美しいメイドを求めてきたエロオヤジ。
そういったカテゴリーに彼を当てはめた方が自分が傷つかずに済んだ。
(クリフトの言う通りだ⋯⋯)
♢♢♢
この1週間、スタンリーは私に公爵夫人としての仕事の引き継ぎをしている。
彼は王宮での仕事もあり事業も幅広く展開しているから昼は忙しく、専ら夕方から私と執務室で過ごしていた。
前世の知識があるから経理的なものは何とか対応できているが、この世界で読み書きを習った事がないので苦戦している。
スタンリーが私が公爵夫人としての仕事をこなすことを、最初から期待していなかったのは明白だった。
私、ルミエラは貧しい家に生まれた平民だった。
それゆえ、まともに教育を受けていないくて字の読み書きすら怪しい。
私の学のなさなんて、スタンリーはプロポーズした段階で気がついていたはずだ。
側から見れば、彼が私に求婚したのは若い肉体を求めたからだと思われても仕方がない。
でも、スタンリーの一挙手一投足を観察していると、彼が求めていたのが私の愛だったと気がついてしまった。
彼は私を心から愛していたから、私に気持ちがないと分かってしまったのだろう。
「それにしても、すごい量の招待状⋯⋯貴族間の付き合いも本当は私の仕事でしたよね⋯⋯」
机に置いてある、手紙を1つ1つ開ける。
名門モリレード公爵家と仲良くしたい貴族は多い。
この間のタラチネ嬢ように、元メイドのくせに公爵夫人の仮面を被っている私を辱めたい目的の招待もあるだろう。
「無理しなくて良い。君は十分この1週間頑張ってるよ」
私の手から招待状の束を取り上げた、スタンリーの表情が一瞬強張った。
私は彼を固まらせた手紙が何か気になり、無理やり手紙の束を取り返す。
「私宛に、メアリア嬢からですね。これは、招待状ではないだろうな⋯⋯」
私が封を開ける間、スタンリーは気まずそうに目を逸らした。
この手紙をわざわざ処分せず、招待状に混ぜて私の目の届くように置いたのはスタンリーに気があるメイドだろう。
そして、当然ながら私を嫌っている。
ここに働くメイドは、ほとんどが彼を狙っている。
一見、淡白で仕事人間に見える彼が、4年前に学もない平民の私を妻にしたのだ。
まるで、ロマンス小説にしかあり得ないようなシンデレラストーリー。
きっと、私の振る舞いから自分の方が彼に尽くせるのにと思っている女も多い。
(自分にもチャンスはあると思われても仕方ないわよね⋯⋯)
メアリア嬢が彼の隙間に入り込めたのは私と似ていたからだ。
そして、本来ならばガードの固い彼に隙ができてしまう程に追い詰めたのは私だったりする。
「ルミエラ公爵夫人にあの夜の一部始終を報告するのが礼儀かと思い筆をとりました。私にとって、あの夜は一生忘れられない夢のような時間でした。まず、公爵様は私の手を優しく取り口付けをし⋯⋯」
官能小説のような手紙の内容は、明らかに私を挑発しようとしていた。
私は心底彼女に舐められている。
私が手紙を声を出して読み始めると、焦ったようにスタンリーが手紙を取り上げようと手を伸ばしてきた。
その手がインクの瓶にあたり、置いていた書類が真っ黒になる。
(意地悪し過ぎたかも⋯⋯)
「すまなかった⋯⋯」
「いえ、別に⋯⋯。ただ、メアリア嬢は本当に礼儀という言葉をはき違えてますね」
「全ては俺の過ちだ。どうかしていた⋯⋯」
震えながらハンカチを出してきて、私の手についたインクを必死に拭く彼が哀れだ。
彼は私の醜悪な一面も嫌という程見てきたのに、私にまた日に日に夢中になっている。
彼は私のことしか愛せない病気だ。
そして、彼自身もその病気に悩んでいるように見える。
「書類、大切なものばかりだけど⋯⋯」
「大丈夫だ。これは写しだから⋯⋯」
「やっぱり、まだ私の仕事を信用してくれてなかったのね」
「そのような事はない。君は頑張ってくれている」
彼は私にだけは甘い。
「頑張っている」私を見るだけで満たされてしまっている。
実際の私は文字をやっとスラスラ読めるようになったレベルだ。
書くことに対しては、まだまだ足りない。
結局、今のところ私のしていることはお仕事体験の粋をでれていない。
「スタンリー、一緒にお風呂に入りましょ」
「えっ?」
単純な男なら喜ぶところだろうに、スタンリーは私の言葉に真っ青になっていた。
私の意図をはかりかねているのだろう。
「私の得意な仕事をさせて」
メイドとして働いていたから入浴の手伝いは得意だ。
正直、この1週間自分があまりに何もできていない事を突きつけられ過ぎた。
彼の手を引き、浴室に連れて行こうとするが明らかに腰が引けてる。
「ふふっ! そのように怖がらないで。 突然、浴槽に顔を抑えつけて殺されるとでも思ってる?」
「そのような事、思っている訳ではない」
いつも余裕な彼が焦って否定しているのが、おかし過ぎる。
私は、相手を殺意を抱いても実行する事はしない。
抱いた感情を即座に実行してしまうのは、クリフトだ。
廊下でスタンリーの手をひく私は使用人たちの注目を集めていた。
(少しは牽制になれば良いけれど⋯⋯)
知れば知るほど、繊細で愛しくなるスタンリー。
もっと、彼を早く知ろうとして私も歩み寄ればよかったけれど過ぎた時は戻らない。
「クリフトはうまくやれてるかしら? 何かアカデミーから知らせはあった?」
「特に知らせはないな。1年遅れで入学したが、授業にはついていけているのだろう」
スタンリーの言葉に苦笑いが漏れた。
私はクリフトが天才で私たちを躊躇いなく殺す子だという事実を、彼と共有できない。
唯一その悩みを話せるのはレイフォード王子だが、私はスタンリーと危機を乗り越えていきたいと思っている。
「お風呂は、その⋯⋯一緒に入るって⋯⋯」
先程まで、スタンリーは顔を青くしていたのに、今度は顔を赤くしていた。
私の前では表情管理も忘れてしまうようだ。
(気まずさよりも、期待が勝ったか⋯⋯)
「そうよ。誰かさんのせいで、インクのベタベタが気持ち悪いので私も一緒に入るわ」
嫌味を言ったのに、スタンリーは嬉しさを隠せていなかった。
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