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1.
『もっと感情を込めて歌ってください』
合奏のとき顧問にそう言われて音楽室を追い出されたわたしは、練習場所を探して校舎内を歩いていた。
右手にサックス、左手に譜面台と楽譜。サックスは首からストラップで下げているけれど、重量はある。足も重い。
『技術でごまかさないで。徳山さんの心を、音に乗せてください』
そもそも、楽器で歌うって、なんなの? 楽器は楽器じゃん。技術があれば上手く聴こえるじゃん。わたしの心を歌に乗せるってなにそれ。歌は乗り物じゃないし。
『これはあなたのソロから始まる曲です。そこに気持ちがあるかないかで、そのあとの音楽がガラッと変わります』
そんなの知るかよ。ほかの人たちが歌えばいいだけじゃん。わたしのせいにすんな。
「はぁ……」
やっぱり自分の教室が一番入りやすいかな、と思って二年一組の前まで来たとき、中から微かに声が聞こえた。誰かいるらしい。前も後ろもドアは閉まっている。わたしは耳をドアに近づけた。
「~♪」
それはわたしが任されたソロの部分の鼻歌だった。顧問の先生に『歌え』と怒られた、サックスのソロ。
四拍子でテンポは132。軽快で夏の砂浜っぽい曲調。
清らかで透明な声だった。女の子の声だろうか。鼻歌なのになめらかで濁りがなかった。息を吸って、吐くのを忘れる。ただ、邪魔したくないと思った。耳にスッと入ってきて、心を満たす。太陽の香りがして、ドキドキした。身体中の細胞が今にも悲鳴をあげそうで、口元を手で押さえる。サックス吹きはストラップが付いているから、手を離しても大丈……
バサッ!
鼻歌が止まった。床には楽譜が散乱している。どうやらやってしまったようだ。
「……誰かいるの?」
教室の中から伺うような声がした。わたしは仕方なくドアを開ける。
「ごめんなさい、邪魔するつもりはなくて——」
その子の顔を見て、時間が止まったように身体が固まってしまった。しっかりと目が合ったところで、カチリと時計の針が動く。
「お、とこの子?」
そこにはワイシャツの袖口を七分丈ほどに捲り、指定のズボンを履いた男子高校生が立っていた。
「……男だけど」
彼は少しムスッとした顔で答える。それもそうだ。声を聴いただけで男女区別するなんて、偏見もいいところだ。わたしは慌てて弁明する。
「違うの。高くてキレイな声だったから、つい女の子だと思っちゃって……わたし、あなたのこと、知ってる。名前わかんないけど、同級生だよね? 顔見たことある」
「まぁ、同級生だね。俺も君のこと知ってるよ。吹奏楽部の徳山華絵だろ? サックスでパートリーダーの」
「え。めっちゃ知ってんじゃん。なんで? 同じ吹部だっけ?」
「それならさすがに君は俺の名前を知っててもよくないか」
「確かに」
はぁ、とため息をつかれた。すべてを諦めているような音だった。先生につかれたため息と似ていた。コイツにはなにも期待していない、という冷たい音。
わたしは彼に言った。
「ねぇ、名前訊かないからさ」
「え、訊かないの?」
「えっと……勅使河原くん」
「て、てし……?」
「わたしに、音楽を教えてくれませんか」
「はい?」
「さっきの鼻歌みたいな歌い方、わたしに教えてください!」
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