0人が本棚に入れています
本棚に追加
徹夜をする藤棚扇
藤棚扇は焦りに焦り、夜ごはんを食べることも忘れていた。親子丼を作ってくれた夫に、ラップをかけておいてほしいと頼んだ。そしてすぐに、忙しいなか折角作ってくれたのに、ぶっきらぼうな態度をしてしまったのを後悔した。
だから大声で「ヒロー! 大好きだよー!」と、階段を降りようとしていた夫へと叫んだ。すぐに、「ぼくも大好きだよー!」という声が返ってきた。もう何年も連れ添っているのに、その言葉を言われるとドキッとしてしまう。
来年度から、琥珀紋学院大学の文学部に着任することになったのだが、受け持つことになった授業のシラバスを作っていないことに気付いたのは、夕方になったころ。
締切りはもう近い。教えることは決まっているけれど、年間を通してどういう授業をするのかということを、詳細に、学生のために提示しなければならない。学生たちは、このシラバスを読んで履修する授業を決めるのだから。
大学へ車で通うことのできる距離にある、夫の実家に移住することになった。自分の部屋の窓を開けると、鬱蒼とした森のなかに、かすかに鳥居が見える。織彦神社というらしい。大晦日から年始にかけて、たくさんの参拝客が来るとのことだ。道路沿いには、木造の二階建ての家々が並んでいる。この家もそのひとつだ。
玄関を出ると、正面に小さな横道があり、そこを突っ切ると、緩やかな坂道へと抜ける。さらにその坂道は、橋の方へと続いていく。橋の近くには公民館があり、この地区で行事ごとが行なわれるときは、人々がそこへ一斉に集まる。春になれば、皐月祭りの準備を、子どもたちだけではじめるらしい。
義父母の寝室は一階の仏間の隣にあり、扇の部屋とは対角線上にある。夫が寝起きしているのは、階段の横の一室で、夫婦別々の部屋になっている。そのことを提案したのは、扇だった。生活習慣が微妙にズレているからというのは表向きの理由で、本音としては、こういう気持ちでいたのだ。
(夫婦は別々の部屋の方が、セックスレスにならないって、テレビで言ってた!)
たくましい夫に、自分の身体を求められているときの幸せ……を思うと、キーボードを打鍵する指が止まる。感情が昂ぶって、にやにやが隠しきれない。それをぐっと我慢して、シラバスの作成を進めようと思い直したが、やっぱり、休憩をひとつ挟むことにした。
背もたれに凭れ掛かり、ダージリン・ティーを一口飲んで、この地域の厳しい冬のことを想う。これから、ここにずっと住むのだから、日本海を臨むこの町の、冬の初めから終わりまでを経験することになる。
そして、前に所属していた大学のことに想いを馳せる。最後に指導した学生たちの顔が浮かんでくる。琥珀紋学院では、どんな学生たちと出会うことができるのだろう。そこには、むかし一緒の大学で教鞭を執っていた、神凪湖畔がいる。また同僚になるとは思いもしなかった。そういえば、湖畔からこんなお願いをされていた。
「わたしの指導している院生が、×国の移行期正義のことを研究しているのだけど、その国の歴史の中では、教会と宗教が大きな役割を担っていてね。もし差し支えがなかったら、機会があったときに、その子の相談に乗ってあげてほしい」
新任の教員は、直接、大学院生を指導しない決まりになっている。だから、授業を開くことはできないけれど、たまに相談に乗るくらいなら構わない。アポイントメントを取ってくれれば、時間を空けるなんて、おやすい御用だ。湖畔が言うには、琥珀紋学院の人文学研究科には、大学院生がふたりしかいないらしい。
今年度までいた大学の研究科には、五十人近くの院生がいたものだから、こちらの大学院の様子は想像できない。それでも、湖畔から聞いた限りだと、とても真面目で、熱心に研究に取り組む子たちらしい。扇は、ふたりと会うのを楽しみにしているようだ。ひとりきりの部屋で、思わず微笑を浮かべているのだから。
選択科目を4つ引き受けることになっている。「西洋哲学史」は春学期だけ担当する。だから、秋からは3つの授業を受け持つことになる。シラバスの制作は尻上がりにスピードアップしていく。どうにか、期日には間に合いそうだ。もう一度、椅子に凭れ掛かる。
くるりと椅子を回転させて、電気ストーブに足を向ける。明日は休日だ、と思ったけれど、時計を見ると、明日のことは、今日のことになっていた。苦笑してしまう。夜明けまで、冷えはどんどん強まっていくことだろう。椅子の背にかけておいたブラウンのフリースを羽織る。クリーム色の毛布を足にかける。
「西洋哲学史」の授業。中世哲学は取っ掛かりにくい。そう言われることがあるけれど、少しでも興味を持ってもらえるような講義にするのが、自分の腕の見せ所だ。扇はノートに書き留めておいた授業の構成を、シラバスのフォーマットに当てはめていく。
いままで「西洋哲学史」を受け持っていた先生は、フランス現代思想を中心に研究していたらしく、古代中世の哲学を教えるのに苦労したという。反対に自分は、カント以後の哲学については、「教えられなくもない」というくらいだ。だから秋学期からは、別の先生に受け持ってもらうことにした。
どんどん寒くなってきた。カーテンを開けてみると、雪が降っているのが夜目にも分かる。きりのいいところまで来たし、とりあえず、ここで終わりにしよう。夫の作った親子丼を食べて――いや、明日にしよう。もう、寝てしまおう。そう決めたとき、襖の向こうから、扇を呼びかける声がした。
「扇、まだがんばるの?」
「ううん。もう寝ようと思っていたところ。親子丼は明日食べるね。ありがとう」
しんしんと降っていた雪は、いつしか、吹雪に様変わりし、この家を揺らすほどの猛威をふるいはじめた。心細くなってくる。
「ヒロくんは眠れないの?」
「うん……寒くてね」
寝るときはエアコンを消すというのが、この家の決まりごとになっている。電気代のことを考えてというのはもちろん、布団にくるまっていれば、自然と眠ってしまうものだと、義父母が言っていたから。だけど、いつまでも眠ることができないと、寒さに堪えきれなくなってくる。
しかし扇は、夫の言葉の裏にある本音に気付いていた。
「じゃあ、一緒に寝る? こっちはまだ温かいから」
「でも……」
この煮えきれない態度が愛おしくて、夫をからかってみた。
「一緒に寝たいから来たんでしょ? ヒロくん?」
パソコンの電源を切り、電気ストーブを消して、布団の上半分を折り畳んで、消灯し、枕元の電気スタンドだけを点ける。そして、引き出しから箱を取りだし、四角形の袋を手に取り、躊躇うことなく破った。
すると、そっと襖を開く音が聞こえてきた。
〈了〉
最初のコメントを投稿しよう!