僕の知らない唄

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 僕はしばらくの間、閉めた鉄扉の把手を握りしめたまま、その声に耳を澄ましていた。僕の前髪の毛先から垂れている雫が、リズミカルに床を打ち鳴らしている。 僕は声に手を引かれるようにして、階段を上り始めた。階段を上っている途中で歌は中断された。静かになった空間の中で、微かな雨音と、靴底が階段を蹴る音だけが取り残されてしまった。  だけど僕には歌が聞こえていた。鼓膜の奥で、あの歌声の残響が心臓を揺らしていた。  足早に階段を上り終え、その先にあった扉を開くと、僕の身体はまた海からの強風に晒されることになった。灯台と同じオレンジ色の柵に囲まれた場所は、さながら展望台のような見晴らしの良さで、崖に近づかなくても海の様子が俯瞰できた。  海の匂いが鼻孔を掠める。――実際には、雨の日特有の陰鬱な臭いがしていたが、僕が持つ海に対するイメージが感覚を揺り起こしたのだ。記憶は時に、現実よりも強く景色を描写してくれる。肌に刺さる太陽光線も、遠くで聞こえる汽笛の音も、空を飛ぶ数羽のカモメも、僕にとっては存在する。さっきの歌声だって、まだ聞こえてくる。海食崖の上は、灯台を囲むように黄色い向日葵が咲いている。
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