失踪

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失踪

 春乃は当時二十八歳。東京で両親と同居していた。  春乃と千秋の父は、都市開発を手掛ける副島不動産の社長で、春乃も経営企画室に勤めていた。  母に、「有休とって東北の友人を訪ねてくるね。二、三日帰らないけれど心配しないで」と言って家を出た。  その頃、千秋は既に樹生と結婚して別で暮らしていたので、このやりとりはあとで知ったが、東京生まれで東京育ちの姉に、東北に友人がいると聞いたことはなかった。  その日、春乃は新幹線と在来線、それに定期船を乗り継いで、夕方この島を訪れた。それは今日、千秋と樹生が来たのとまったく同じルートだった。  春乃は船着き場で紹介された海鳴荘を宿に決め、そこに二泊した。  二日間、春乃は島の灯台を訪れたり、唯一の寺である月仙寺(げっせんじ)の紅葉を見に行ったりして、女将にもう一泊すると告げた。  その三泊目の日に春乃は姿を消した。  夕刻、帰りの遅い春乃を心配した女将が島の駐在所に連絡をし、辺りを捜索してもらったが見つからなかった。  本土行きの定期船の乗船名簿に春乃の名前はなく、島を出た形跡はない。  荷物は宿に置いたまま朝まで戻らず、翌朝これは一大事と村の消防団が島をくまなく探した。島の中央には小さな山があり、そこを含めて捜索したが見つからなかった。  そして残された荷物から身元を確認し、東京の自宅に行方不明であることが知らされたのだった。  春乃が失踪した日の午後、島の東側にある尼出海岸(あまでかいがん)に向かう若い娘を目撃したという情報が寄せられた。海で荒波にさらわれたのか、あるいは覚悟の自殺かと考えられた。 「姉は何か言っていませんでしたか?」 「そうですねえ。この島に来る前に、少し島のことを調べてこられたようで、妙春尼(みょうしゅんに)の話を聞かれました」  女将は言う。 「みょうしゅんに?」 「はい。この地に遠い昔実在した女性です」 「どんな方なのでしょう?」 「補陀落渡海(ふだらくとかい)をされた立派な尼さんです」 「ふだらくとかい?」  千秋と樹生の声が重なる。初めて聞く言葉だった。 「はい」と女将。 「くわしくお知りになりたければ、明日、月仙寺(げっせんじ)のご住職にお話を聞きに行かれたらいいかもしれません」  女将はそう言うと夕食の時間の確認をして、「どうぞごゆっくり」と言って部屋を出ていった。 「ふだらくとかい」  樹生がスマホで検索する。平仮名で打ったが、すぐにこれというものが見つかった。
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