渡海船

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渡海船

 補陀落渡海と聞いても、名主にはなんのことかもわからなかった。  補陀落渡海は中世の頃から紀伊国(今の和歌山県)の那智勝浦などを中心に行われていたが、東北で行ったという話は聞かず知る機会がなかった。  月仙寺の住職に相談すると顔を曇らせた。しかし藩主の命であれば仕方ないと動き出した。  住職は船の造船を名主に頼んだ。島の男衆総出で作ったそれは、船室を囲むように四つの赤い鳥居の付いた奇妙な船だった。  この船に行者を乗せて送り出し、行者は世の安寧を祈りながら補陀落、つまり浄土を目指して還らぬ旅に出る──。  住職の話を聞き名主は驚いた。船に乗るのは僧侶である住職しかいない。 「お若い身で痛ましや」 「住職様が旅立たれたらこの島はどうなるのだ」  島のものは皆、嘆き悲しんだ。  船出の日。  住職が浜辺で経を上げ島の者達に別れを告げていると、そこに一人の尼僧が現れた。  出家した春代、今の名を妙春尼と言った。 「補陀落へは私が渡ります」  そう言うと、船に乗り込もうとした。 「春代殿、いや妙春尼、それはならぬ」  住職は止めた。 「あなた様にはこの先も、この島の者達をお救いいただかなければなりません」  妙春尼はそう言い、島の若い衆に肯く。彼らが住職を力で止めた。 「この島をお願いいたします」 「妙春尼殿、承知した。生涯、必ず……」  妙春尼の強い決意に、住職は肯いて約束した。  妙春尼は渡海船の船室に乗り込むと、出られないように外から板が打たれた。  船は別の船に引かれて沖へ出る。そして綱を切られると、大波の中を進んでそのまま見えなくなった。  月心の説明を黙って聞いていた二人は茫然としていた。 「その後、ご住職はどうされたのですか?」  千秋が尋ねる。 「それから一年後、現藩主が隠居して住職の父君が藩主となりました」  住職も還俗(げんぞく)して城に戻れという知らせが届いたという。 「出立の日の前夜は海が荒れ、海鳴りがしたそうです。その音の合間に、女性が歌うような、あるいは経を読むような声がしたと言う者もおりました」  人々は妙春尼が別れを惜しんで泣いていると語ったそうだ。 「住職の船が島を出ると、急に海が荒れだしました。そして波の合間に、一艘の船が近づいてくるのが見えたそうです」  実は住職の船には、妙春尼の妹の秋江が同乗していた。想いが通じ、側室として迎えられることになったのだ。 「秋江さんが?」  千秋は顔色を変える。  秋江は近付いて来る船を見て、「姉様(あねさま)、姉様がいる」と狂ったようになったという。 「それは一年前、補陀落へ旅立ったあの妙春尼の船でした」  渡海船の赤い鳥居の前に一人の尼僧が正座して、大波に揺られるのをものともせずこちらをじっと見つめていた。 「姉様、許して! 許して!」  そう叫ぶと秋江は皆が止めるのも聞かず、海の中へ身を投げた。  秋江の姿が海中に吸い込まれると突然波は穏やかになり、近付いていた妙春尼の船も消えていたという。 「住職は還俗をするのを()め、島に戻って生涯妙春尼と秋江の魂を弔ったそうです。妙春尼が旅立った海岸は尼出海岸と呼ばれ、海鳴りに妙春尼の歌が聞こえた日には海岸に出てはならぬという言い伝えが生まれました」  月心はそう締めくくった。
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