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妙春尼の歌
その夜、千秋と樹生はそれぞれの布団に横になって、春乃のことを考えていた。
春乃は妙春尼に自分の境遇を重ねたのだ。
千秋は姉が望み通り、海岸で妙春尼に遭えたのかどうかが知りたかった。
樹生は恋人だった頃の春乃の姿を想い浮かべ、彼女を絶望の淵に追い込んだ自分を責めた。
「妙春尼の歌が聞こえるわ」
千秋が呟いた。
海が荒れ、海鳴りの中にか細く女の悲鳴のような、歌声が聞こえてきた。
次の日。
朝、樹生が目覚めると、千秋の姿がなかった。驚いて飛び起きた樹生は急いで洋服に着替えると、階下へ降りた。
ちょうど女将が玄関を掃除していた。
「あの、妻は? 妻を知りませんか?」
「奥様でしたら、早くに目が覚めたので散歩してきますとお出かけになりました」
女将が答える。
「まずい! 尼出海岸への近道はありますか?」
樹生は女将から道順を行くと、宿を飛び出した。
どんよりとした曇り空、かすかに霧雨が降っていた。その雨に当たりながら、樹生は女将に聞いた近道を走って海岸へ急いだ。
松林を抜けていくと、砂浜の向こうに灰色の海が広がっていた。波が荒く、ところどころ白い波しぶきが立っている。
「千秋!」
波打ち際に立つ妻の姿を見つけ、樹生は叫ぶ。
しかし風の音で聞こえないのか、千秋は振り向かない。いや、千秋は遠く水平線の方に目を奪われ、聞こえていないようだった。
樹生もそちらに目をやると、荒波の間を一艘の船がこちらに近付いて来るのが見えた。それと同時に女の歌声のような、お経のような声が海鳴りと共に頭の中に響いてきた。
船は段々近付いて、やがて船に建てられた赤い鳥居がはっきりと見えるまでになった。話に聞いた渡海船だった。
鳥居の前に誰かが座っているのが見えた。
(妙春尼? いや、違う、あれは……)
そこに正座している女は尼僧ではなかった。感情を見せずに真っすぐにこちらを見つめているのは春乃だった。
樹生はつんのめりながら千秋の元へ急いだ。
しかし千秋は船に吸い寄せられるように海の中へ入っていく。
「千秋! 行くな──!」
樹生が叫ぶが風の音にかき消され、千秋の耳には届かない。
千秋の身体は膝まで水に浸かり、やがて腰まで浸かったところで船がそのすぐそばに姿を現した。
千秋は船に這い上がると、春乃の横に倒れ込んだ。
すると、船はまるで何かに操られているかのようにくるりと沖に向きを変え、大波の間を真っすぐ沖へと戻っていった。
「千秋──! 春乃──!」
樹生は追いかけながら叫ぶが、やがて船は波間に消えてしまった。
その瞬間、樹生も大波に巻き込まれて意識が遠のいた。
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