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アフロディーテの涙〜その1
「実は、助けて欲しい案件がある」
そう言って、一人の男性が私の前に座った。
ここは、【異常心理学研究会】の研究室。
ちょうど次の研究テーマについて、打ち合わせの最中だった。
「いやに唐突だな」
ポツリと返しながら、私も静かに着座する。
前置き無しで用件を切り出すのは、いかにもこの男らしい。
神楽坂尚文──
それが、男性の名だった。
私の友人であり、K大医学部の二回生である。
くたびれた白衣にボサボサ頭の貧相な風体だが、臨床心理学の知識では教授にも引けを取らない。
以前遭遇した【メデューサの首事件】では、彼の助力が解決への糸口となった。
その意味では、大きな借りがあると言っていい。
「私たちへの相談って事は、何か事件なの?」
飲みかけたコーヒーを机上に戻しながら、クイーンが尋ねた。
【事件】という言葉に、スマホを眺めるドイルと、コーヒーを淹れるクリスが同時に振り向く。
「ナニナニ?医学部の超エリートでも、手に負えないほどの事件なの?」
ドイルが興味津々の体で、身を乗り出してきた。
クリスも黙って、聞き耳を立てている。
「うわっチ!く、クリちゃん……!」
「あっ!ご、ごめんなさい」
よそ見したまま注いでいたコーヒーが、ドイルの膝を直撃する。
あたふたする二人を見て、クイーンが呆れたように首を振った。
「それで、その相談というのは?」
外野の喧騒など全く意に介さず、私は淡々と話しを進めた。
「ある人物がストーカー被害にあっている」
「えっ!ストーカー!?」
ドイルが、また素っ頓狂な声を上げる。
「え、何!?誰かに付き纏われてるとか?変な電話がかかってくるとか?」
「いいから、アンタは黙ってなさい!」
勢い込んで喋るドイルを、クイーンが一喝する。
ドイルは叱られた犬よろしく、シュンと席に縮こまった。
「手紙だよ」
その様子を一瞥し、ニコリともせず尚文は言った。
「誰かは知らんが、同じ文面の手紙を何度も送りつけてくるんだ。たまたま俺も見る機会があったんだが……なんとも脅迫めいた内容だった」
そう言って、尚文は顔をしかめた。
近年、ストーカー被害は増加の一途を辿っている。
2000年に『ストーカー規制法』が制定されたが、目に見えて効果が出ていないのが実状だ。
付きまとい、待ち伏せ、等の直接的な行為から、電話・手紙による嫌がらせ、SNS・メールを使ったものなど、手口の多様化が進んでいるのも一因らしい。
そもそも、動機の八割以上を占める【過度な愛情】【満たされない欲求からくる怨恨】といったものは、人の持つ根源的な性質であるがゆえ、根絶は不可能だ。
ストレスの溜まりやすい現代社会においては、これらをコントロールすべき理性など、いともたやすく崩壊してしまう。
理性を失った人間は、もはや単なる動物と同じだ。
本能の赴くまま行為・行動に走ってしまうのである。
つまるところ、我々の研究テーマである【異常行動の原理】も、根幹は同じと言えるだろう。
「……その人物とは?」
私は瞑想を振り払うと、しっかりとした口調で尋ねた。
その問いに、黙ったまま鞄を開き、何かを取り出す尚文。
それは、一枚の写真であった。
「今年の新入生歓迎会の席で撮ったものだ」
ホテルのホールらしき風景の中、白衣を着た十名ほどの学生が写っていた。
前列に男性二人と女性一人が腰掛け、後列に残りの男性が並んで立っている。
どうやら、腰掛けた三名が新入生らしい。
尚文自身も、後列の真ん中に写っていた。
尚文のいる臨床心理学特能コースは、医学部の中でも選りすぐりのエリートしか入れない狭き門だ。
新入生が僅か三名でも、決しておかしい事では無い。
「被害にあっているのは、彼女だ」
そう言って、尚文は前列の女性を指し示した。
両手を膝上で重ね、真っ直ぐ前を向き座っている。
「彼女の名は、雅氷見子……今年、首席で入った一回生だ」
尚文の説明を、しかし私は全く聴いていなかった。
よく通った鼻筋と蕾のような唇。
透き通るような白い肌。
そして──
いまだ記憶に焼き付いて離れぬ、死人のような瞳。
それは紛れもなく、カフェテラスで会ったあの女性であった。
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