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01 消え返る汝
この日は、バケツをひっくり返したような大雨で、
彼は、船を見に行くと言って出て行った。
船は、彼の大事な商売道具。
私は、雨具を被り、家を出て行く彼を見送った。
彼は、父親の跡目を継いだ漁師。
私は、そんな彼の許嫁だった。
私は、海の世界を何も知らない。
そんな私に、彼は色んな海のことを教えてくれた。
潮を観て、
風を読み、
星を識る。
そして、
海を恐れ、
海を敬う。
海は、優しくも怖くもある。
海は、私たちに恵みを与えてくれる。
だから、海とは畏敬の念を持って接すべし。
彼から私は、海のことをそう教わった。
□◆□◆□◆□
彼が船を見に行くと言って出掛け、もう随分時間が過ぎた。
流石に遅いなと思っていた矢先、
同じ漁師仲間が、慌てた様子で家に来た。
「良子さん!! 寛太が波に攫われた!!」
この日、
海は、私の汝を連れ去ってしまった。
消えてしまった彼。
この日から、私は彼との想いを引き延ばした。
彼との想いが薄まらぬように。
私の瞼の中の、彼の姿が掠れぬように。
私の中の彼が、消えてしまわないように、
私は、それを毎日同じ形、同じ厚みで引き延ばし続けた。
そして、どんな姿でもいい。
彼が私の元へ帰って来てくれるまで、
私は、いつまでも彼を待とう。
そう心に決めた。
今日待てればまた明日。
明日待てればまた明後日…。
そうやって、延ばしに延ばして待ち続け、
気づけば顔には深い皺。
身体は既に朽ち果てる寸前。
だけど彼の姿は、今も鮮明に思い出せる。
だって、そうやって延ばし続けてきたから。
今日も私は彼を待つ。
もう動かす事の出来ない朽ち木を引き摺って。
そして待ちわびた刻。
「良子」
ああ…。
愛しい彼の声が聞こえる…。
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