0人が本棚に入れています
本棚に追加
「あなたの歌のレッスンを担当するわ。よろしく」
「……は?」
台車に乗せられて現れた彼女に、沙綾の口から零れたのは一文字だった。開いた口が塞がらないとはこのことか、状況を把握しようにも頭が働かない。
「早速だけど始めようかしら。課題曲は覚えてきたわよね?」
「ちょ、ちょっと待って。まず、説明してもらっていいですか?」
沙綾が制すと、彼女は「説明って?」と目を丸める。不思議そうに。心底不思議そうに。直後「あぁ!」と手のひらに拳を乗せて
「自己紹介がまだだったわね。でも、どうしようかしら。私には名前がないのよ……セイレーン先生とでも呼んでちょうだい」
「そうじゃないけど、それ!」
「はぁ?」
「なんでセイレーンがここにいるの!?」
「なんでって……講師として雇われているから」
「雇われてんの!? 海の魔物が!?」
セイレーン。
歌で人々を魅了し船を遭難させてしまうという、架空の、想像上の存在。人魚に近い姿をしているだとか、あるいは半鳥人の姿であるだとか言われているが、彼女は両方の姿であるようだ。それが、なぜ目の前に?
ああ、そうだ。きっとこれはコスプレだ。碧眼に金髪、細身の身体ーー上半身は普通に人間のものなのだから、背中の翼と下半身をびっしりと覆っている鱗や台車から大きくはみ出ている尾ひれは作り物に違いない。
沙綾は失礼を承知で翼に触れる。小学生の頃、学校からの帰り道でたまに道路に落ちていたみたいな羽根が一枚一枚ついている。よく出来ているなと感心しながら試しに一枚つまんで引っ張ると、セイレーンを名乗る彼女は「痛い痛い! なにすんのよ!」と悲鳴をあげた。
痛覚が、ある……?
続いて鱗に触ってみる。ざらりとした感覚とぬめりに思わず手を引っ込めた。一枚一枚重なった薄く硬い鱗、なんとも言いがたいわずかなぬめり。まるで本物の魚みたいじゃないか。
翼も下半身も作り物ではないとするとーーこれはコスプレではない。信じがたいが、目の前にいるのは正真正銘セイレーンなのだ。
念のため、もう一度触っておこうと鱗に手を伸ばした瞬間、沙綾の頭上にげんこつが落ちた。
「目上に対する態度は後々指導するとして。私がセイレーンなのが、レッスンをするにあたってなにか問題なのかしら?」
セイレーンの拳がわなわなと震えている。沙綾は頭をさすりながら、しかし彼女の言うことが的を得ているのも事実だと反省する。相手が何者であろうと、歌の指導をする存在だということに変わりはない。
「すみませんでした。よろしくお願いします」
「うん。それじゃあ早速、課題曲を歌ってもらいましょうか」
最初のコメントを投稿しよう!